家のドアの鍵は開いていた。璃緒はどうやらかなり前に帰ってきていたようである。恋人とのデートから。
「おかえり凌牙。ごはん食べる?」
璃緒の姿は見えないが、廊下を歩いていれば声が聞こえてきた。
「いい。それより、風呂、すぐ入れるか?」
「どこかで食べてきたならいいけど、ちゃんと連絡してよね。お風呂なら沸いてるわよ」
璃緒のいるだろうリビングに立ち寄ることなく、凌牙はまっすぐに浴室を目指す。手早く服を脱いで、早速湯船に浸かる。体力を消耗した身体に暖かい湯は染み渡るようだった。
凌牙はいつもIVとのセックスの後は、帰宅してすぐに風呂に入るようにしている。身体は一通りホテルで清めてはいるが、璃緒に疑われるほど遅くなる前に帰らなければいけないため、十分な時間がとれない。湯に浸かり、赤く染まった身体中の鬱血痕を、熱で多少なりとも落ち着かせなければならないのだ。
「………」
湯気に満ちた中、凌牙は浴槽の中で膝を抱える。ため息が湯の中にとけていく。視界の端に映るは、湯の中に沈んだ肌に残る赤い痕。璃緒には気づかせないようにと服でうまく隠せてはいるはずだが、この傷を見れば益々、璃緒にこんなことをさせるわけにはいかないとも思う。……しかし。
……本当にこんな関係を続けていていいのだろうか。
それはもう何度も考えて、その度に答えの出なかった疑問。
璃緒とIVがお互いを本気で愛してつきあっていることは間違いない。璃緒から見せられるデートの写真はいつも、ふたりとも凌牙の前では浮かべることのないような、それはもう幸せそうな笑顔を浮かべている。
IVも璃緒が大切だからこそ、凌牙とセックスをしているのだということもわかる。……凌牙の方も璃緒を大切に思っているからこそIVとセックスをしている。
(……いや……)
ちゃぷん、と湯を波立たせて、凌牙はずるずると沈み込む。
(俺は璃緒のことは言い訳でしかなくて、ただ、IVに抱かれるのが、嫌じゃないんだ……)
たとえ璃緒の代わりだとしても、凌牙はIVに抱かれることに喜びを感じているからこそ進んでこの関係を受け入れているのだ。男同士とはいえかつて純真な恋心をIVに抱いたのは間違いない。今でも凌牙の中には、自分自身でも笑ってしまうことだがその気持ちが強く残っている。
目を瞑れば思い出す。セックスの最中の、IVの艶めいて興奮した、扇情的な顔を。
その顔をきっと璃緒は知らない。IVが抱く凶暴な性欲を受けることを許された凌牙だけが見ることができる顔。
そのことに優越感を覚えてしまっている自分が間違いなく存在していることに、凌牙は自虐に肩を落とす。
(本当に俺は……だめな兄だ)
兄という括りではなく、人間という存在レベルで駄目だなと思えて、凌牙の気持ちは益々沈み込み、つられて湯船にも身体が沈んでいく。
「空気が重いわよ、凌牙」
「うるせぇよ……って、なっ?!」
あまりにも自然に響いた声に、凌牙は一瞬何が起こったのか分からなかった。
がらりと開け放たれた浴室の扉。そこから浴槽の中の凌牙を見下ろしているのは、璃緒。
学園中の男子を虜にしてやまない彼女は今、何も纏わず生まれたままの姿を凌牙に晒している。
「何してんだ璃緒、そんな格好で!」
「あら、私が入院する前までは、ずっと一緒にお風呂入ってたじゃない」
思わず顔を赤くする凌牙に、璃緒は何でもない風に言って、平然と浴室の中に入ってくる。かちゃりと曇りガラスの扉の鍵が閉められる。璃緒の赤い瞳に風呂場に不似合いな氷のような鋭さを本能的に感じた凌牙は、咄嗟に湯から上がろうとするがもちろん璃緒が逃がしてくれるわけがなかった。両肩を押されて、浴槽の中に沈められる。璃緒も浴槽の中に入ると、凌牙の上に覆い被さるような格好をとった。二人分の体積に、水がかさを増し湯船から音を立てて溢れる。
「璃緒」
「凌牙」
璃緒がぎゅっと掴みあげたのは凌牙の左の手首だった。湯の中から出され、空気に晒されたそこにはくっきりと鬱血の痕が残っている。璃緒の目が細められる。
「何これ。どうしたの」
「……ちょっと喧嘩でしくじっただけだ」
鋭い視線に耐えられず目を逸らしてしまう。
「そんな言い訳で私を誤魔化せると思ってるの?」
手首を握ったまま、璃緒は凌牙の鎖骨の上にあった赤い痕を見つけた。顔を近づけて、あろうことか璃緒はその痕に唇を寄せたのだ。
「んっ?!」
「……喧嘩じゃこんな痕、つかないわよね」
ちろりと舌で舐められて、IVとのセックスの熱が残った凌牙の身体はびくりと震えてしまう。
「あっ……お、おい、やめろっ……」
「ここも。ここも。ここにも……どんな喧嘩したら、こんな傷がつくの?」
他にもIVが残した痕を璃緒は見つけて湯の中で指を動かしてなぞっていく。その手つきはまるで愛撫のようで、凌牙はのぼせてしまったのだろうか、クラクラと眩暈がするのを感じていた。
「知らないと思ってるの?」
璃緒の真剣な声に、凌牙はようやく彼女の目を見る。そこには赤い瞳を潤ませて、涙を堪えて訴えるような、あまり見たくはない表情の妹がいた。
「璃緒、おまえ、まさか」
「今日も、してきたんでしょ。トーマスと。凌牙で、えっちなこと」
トーマスはIVの本名だ。凌牙は彼の本名を知ってからも、接した時間の長いIVの名を使っているが、璃緒は彼とつきあうようになってからはトーマスと呼んでいる。つまるところ。
隠し通せていると思っていたというのに、璃緒は知っていたのである。
彼女の兄と恋人が、彼女に内緒で何をしているのかということを。
「なんで、そのこと」
「わかるわよ。だって凌牙のことだもん」
璃緒の頬が少し赤く染まっているのは、風呂場の熱気のせいだろうか。
「凌牙に何かあれば、離れてても分かっちゃう。……身体が、疼くの。凌牙が気持ちいいことしてるんだって、私ににも伝わってくるの」
「………」
璃緒の根拠はとんでもないものだった。確かにあの大怪我による長い眠りから目覚めて以降、璃緒には超能力じみた不思議な力が備わるようになった。予言めいたことを言ったり、危険を鋭く察知したり。だがまさか、凌牙の感覚が彼女に伝播しているなんて思いもしていなかったのだ。
確かに凌牙と璃緒は双子である。双子は母の胎内でひとつだった影響で、互いの感覚を共有できる……なんて話も聞いたことはある。だが凌牙と璃緒は二卵性双生児であるし、双子ゆえの特殊能力なんてものも、そもそも信じるのはよほどのロマンチストだけだろう。
しかし璃緒の特殊能力が発揮される場面を凌牙は何度も目撃している。彼女ならば、そんなオカルトめいた感覚を得ていても不思議ではないと納得出来てしまう。そして同時に、羞恥心が凌牙の中でみるみるうちに膨れ上がっていった。
「そっ、そんなのっ」
何か言い訳をしようと、凌牙が口を開いた瞬間だった。
何かやわらかいものが、凌牙の唇に触れて口を塞いだのだ。
いつの間にか璃緒の顔が、鼻先が触れあうほどに近くにあった。呆然としている間に凌牙の口内に入ってくるものの感覚に覚えがあった。それは人間の舌だ。IVのものよりも小さな舌は、ゆっくりと凌牙の口の中を動いていく。精一杯、背伸びをしたようなキスだった。
柔らかな唇がゆっくりと離れていく。唾液で濡れた璃緒の唇はリップクリームを塗ったときよりもずっと赤くて色めかしい。
「……私だって、トーマスとこういうキス、したいのに」
あの男は、璃緒が本当に大切らしい。凌牙には散々仕込んでおいて、彼女には未だディープキスすらしていないというのだ。
「凌牙は、してるんでしょ? こういうこと」
湯気に混じった璃緒の吐息が凌牙の頬にかかる。
「……もう、ふたりきりでいるのに、何もしてくれないのイヤなの。もっと先のこと、してほしいのに」
流石にこれ以上はマズイ、と凌牙は懸命に平常心を取り戻そうと首を横に振る。そうして今度は凌牙が璃緒の両肩をがしりと掴み、声を浴室の中に大きく響かせた。
「落ち着け! 璃緒! あいつは、お前のことを大切に思ってるからこそ、こんなことになってるんだ!」
どこか璃緒に説明したり謝罪したりする論点が間違っているような気もしたが、凌牙はとにかく自分とIVの気持ちを、凌牙が知っていることの全てを璃緒に包み隠さず話した。
IVが璃緒に隠していた性癖のことも、璃緒が入院していた間に凌牙とIVが関係を持っていたことも、よくよく考えれば話さないほうが良かっただろうことも多々含めてしまいながら、それでも璃緒が好きなIVが、どれだけ璃緒を思っているかをのぼせてよく回らない頭でどうにかこうにか説明する。
「……何それ、そんな理由なの」
淡々と低いトーンで璃緒が言うのに、凌牙は彼女が自分に怒りをぶつけることを覚悟した。璃緒にとっては、愛する恋人と兄に騙されたように思っても仕方ない。
「そんな気遣い、いらないのに……」
しかし璃緒は凌牙を拒絶するでもなく怒鳴るでもなく、恋する少女の瞳で小さく頬を膨らませるだけ。拍子抜けして凌牙は目を円くする。
「え?」
「凌牙もだよ。私のこと心配してくれるのは嬉しいけど、まさか、凌牙がイヤイヤそんなことしてるわけじゃないわよね?」
「いや……そういうわけじゃ、ねぇけど」
嫌ではないのが本音だ。むしろIVとのセックスは好きなのだ。だが璃緒にそれをハッキリ伝えるのにはどうしても恥ずかしい。というか本人を前にして、「お前の恋人とのセックス大好きだぜ」などと僅かでも良識があれば言えるはずがない。
「つーか、お前はどうなんだよ、璃緒、お前の恋人の、その……セフレが、実の兄貴でした、なんて状況許せるのか?!」
「なんかもう、よくわかんないよ。でも……それより、凌牙にもトーマスにも変な気遣いされてたほうがショック」
自分で言っているだけで、頭がクラクラしてくるシチュエーションだ。璃緒が混乱して何がなんだか分からなくなってしまうのも当然だろう。
「とにかく、ふつうにするだけじゃ、IVは満足できない、というかふつうにすること自体あいつには多分できねぇんだ」
諭すように凌牙は言う。双子の兄妹とはいえ……否、だからこそ、思春期真っ盛りの男女が二人、風呂場で裸で向かい合っている状態がかなりふつうでないということは脳がキャパシティオーバーしたのだろう、認識できていないようだ。
「お前がIVのことを好きなのも、IVがお前のこと好きなのもよく分かってる。だが。このことについては、俺はIVと同意見だ。……俺は、お前にあんなことをさせられない。IVもそう思ってる。だからこそあいつはお前に」
「だったら!」
ざぱん、と飛沫を上げて璃緒が立ち上がる。右手には決意を秘めて拳が握られている。ついでに成長中の胸がやわらかく揺れたのには、凌牙は気づかなかったことにする。
「こっちからフツーじゃないことをしかけてやればいいのよ!!」
「は?」
璃緒の発言の意味が分からず、凌牙は間抜けな声を上げてしまう。
「私だってもう我慢の限界。もう子どもじゃないのに、焦らされっぱなしだし、トーマスは会う度会う度、真っ先に『凌牙は元気か凌牙はどうしてる』ーってそればっかり。私、本気で悩んでた。……トーマスが好きなのはホントは凌牙のほうで、私じゃないのかもしれないって」
「いやそれはないだろ……」
むしろ身代わりになっているのはこちらの方だ、と凌牙は胸に複雑な感情を抱く。凌牙と会ってもIVは、先ほどまでの様に璃緒の話ばかりなのだから。
「でも凌牙の話聞いて、ちょっと安心した。凌牙も嘘は吐いてないみたいだし。……だから私のほうから、トーマスに仕掛けてみるわ」
「仕掛けるって、何を」
「フツーじゃないことを」
「フツーじゃないって」
焦る凌牙に、璃緒はにっこりと唇で弧を描く。
「……もちろん、協力してくれるよね? 凌牙?」
やる気満々の笑顔で、大切な大切な妹に言われれば、凌牙が断れるわけがなかった。