世界最後の日を防ぎ、月より帰還してからの時間はあっという間に過ぎていった。
今までヒナタが向けてくれていた、長い長いたくさんの愛に気がつけなかったぶんを埋めるように、ナルトは不器用ながら精一杯に彼女を愛した。任務の合間を縫って彼女と共に時を過ごし、いわゆるデートも何度も行った。同期や、今や火影であるカカシもみんな、二人の仲を冷やかしながらも応援、祝福してくれて、簡単な任務なら二人一緒にさせてくれまでもした。忍世界、里公認のカップルだ。
ヒナタの両親にも、ネジの墓前にももう挨拶は済ませている。厳しそうな印象だった日向の人たちは皆ナルトを認め快く受け入れてくれた。少年少女時代に垣間見た分家宗家の確執など、ナルトが彼らと付き合いを持つ頃にはもうすっかり感じられなくなっていて、ネジや、そして今ナルトの隣にいるヒナタが、ヒアシをはじめ日向を既に変えていたのだと分かる。
そうして日向家側の意向もあり、ヒナタと恋人関係になって半年経つ頃には結婚の話もすっかり固まって、準備に追われるような立場になった。木ノ葉では次期火影候補と名高い大戦の英雄と、名家の嫡子の婚姻に、里を挙げてのお祭りムードにさえなっている。
ナルトが昔から住んでいる小さなアパートの一室に、最近はヒナタも出入りするようになった。今日も彼女が当たり前のようにちゃぶ台を挟んだ隣にいる。もうすぐこの光景は、本当に当たり前になるのだ。結婚したらこの部屋を引き払って、二人で住むように借りた新しくて広い部屋に引っ越すのだ。ヒナタも日向の家を出ることが決まっているので、ゆくゆくは家族で暮らす家を建てたいなんて、そんな未来を思い描きながら。
「ナルトくんはもう決めた?」
「えっ、何?」
話を振られ、ナルトは素っ頓狂な返事をしてしまう。しかしヒナタは決してため息なんて吐かない。
「結婚式と披露宴に呼ぶ人。もうすぐ招待状出さないといけないから……」
ヒナタの手元には何人もの名前の書かれた紙がある。ペンを持って、今も考えている真っ最中のようだ。ナルトは知る由もなかったが、この結婚式というものは意外と決めなければならないことがたくさんあって面倒なのだ。とはいえ日向宗家としてのしきたりやならわしがある中、最大限ヒナタのやりたいようにさせてやりたかったので、協力は惜しんでいないつもりだ。結婚式は女の子の永遠の夢だから。と先日会ったサクラに念押しまでされたのだから。
「ナルトくんが結婚式に呼びたい、大切な人、いる?」
ヒナタの手元のリストに視線が送られる。そこには同期や恩師の名が連なっている。アカデミーの同期であり、同時期に下忍となった二人の交流関係は共通している部分が多い。シノ、キバ。ヒナタの八班。サクラにサイ。ナルトの七班。それに猪鹿蝶やリー、テンテン、砂の三姉弟といった、はじめての中忍試験を一緒に挑んだ面々。担当上忍の先生たち。アカデミーの担任、イルカ先生。
(あれ……)
チカッ、チカッとナルトの頭のなかに火花が瞬く。
「私達の結婚を祝って欲しい、大切な人」
その中にたった一人、名前の書かれていない同期がいる。
ヒナタは気がついている。ナルトが自分の手元を見ていることに。白眼の洞察眼は「あの眼」以上なのだ。眉尻を下げて、複雑そうな顔をして。ナルトを見上げている。
たった一人の名前を思い出せば、今までの忙殺の中で忘れていた、否、封じていたのかもしれない記憶が怒涛の如く押し寄せる。
最後に彼と直接交わした言葉。しっかりと互いに握り締めた額当ての重み。
今、ヒナタが座っている場所に、かつて座っていた人物がいる。
この部屋で、たった数ヶ月の間だけれども家族のように寝食を共にした人がいる。
アカデミーの頃からその背中を追いかけて、追いかけて、魂の底からナルトが求めようやく結んだ手。
「っ……!」
ズキンと右腕の肘から少し上が痛んだ。義手はもうすっかり馴染んで、今まで痛みを感じることさえ忘れていたというのに。
サスケ。うちはサスケ。
その黒髪が、黒い瞳と輪廻眼が、ナルトを見つめた。唇は笑みの形に弧を描いているように見えるのに、あまりにも無表情でどんな感情を秘めているのか分からない。
部屋の隅に突如現れた彼の幻影にナルトはただ狼狽えることしかできなかった。
サスケは未だ、長い旅の中にいる。
任務での活躍の報告さえあれど、サスケと直接顔をあわせなくなってもう二年以上経つだろう、なんて呑気なことに安心しきってしまっていた自分に唖然とする。だって「あの」二年半、彼のことを考えない日があっただろうか?
それが大人になったということだ。
本当に彼の身を案じる必要がなくなったということだ。
信頼しているこそだからだ。
世界は平和で平穏になったのだ。
たくさんの言い訳じみた言葉を脳裏に並べても、部屋の隅の幻影は消えずにただサスケの姿形をして笑ってナルトを見ている。ナルトとヒナタ、二人が寄り添っている様を見ている。穏やかに、無感動に。
そんな顔をお前はするのだろうか。
そんな顔でお前はオレの結婚を祝ってくれてしまうのか。
息ができなくなりそうだった。
その日はそのままヒナタと一緒に日向の家に行った。元々ヒアシから話があると呼び出しを受けていたのだ。
畳の上に正座して、ヒアシと話すのもだいぶ慣れた。
「……お前たちの式の話だが」
眉間に皺を寄せ、どこか言いづらそうにヒアシは口を開く。厳格に見えて、しかし彼は本来穏やかで弱い人なのだろうと、ナルトは交流の中でもうすぐ義父となる人間を分析していた。
ヒアシが口を出してきたのは結婚式の招待客のことであった。「彼には助けてもらった恩がある」「感謝してもしきれない」と入念に断りを入れた上で、しかし木ノ葉の名門、日向宗家として、かつて一度でも忍界全てに牙を剥いたうちはサスケを出席はさせぬよう、決して招くことのないように、と命じられたのだ。
ナルトは別段驚かなかった。それどころか、「ああ、やはりな」と諦めにも似た気持ちが静かに流れていっただけだった。
ヒナタは予め言い聞かされていたのだろう。彼女のリストにサスケの名前がなかったのも、ナルトの気持ちを確かめようとしてきてくれたのもつまりはそういうことだ。
(……昔のオレだったら、怒っていただろうか)
ナルトが無言で俯いたのを、ヒアシもヒナタもどう考えたのだろうか。「少し考えて欲しい」とナルト自信が何も言わないうちに猶予を与えてくれた。まるでナルトが言ってきかなければそのままサスケを出席させることを了承してくれるかのような雰囲気さえあった。
答えを出さないまま、その日は一人でアパートに帰る。
そこにはやはりサスケがいて、全てを赦し受け入れるような顔をしてナルトを見つめているのだ。
(なんで)
今まで忘れていられたのだろうか。
違う、当たり前になったからだ、とオレが叫ぶ。当たり前にあるものこそ、普段は気に留めないものなのだから。
オレとお前は唯一無二の親友なのだから。
アカデミーであの日組手をした時から。
お前のことをライバルに決めて、ずっと憧れていて、その背中を追いかけて、認めてもらえた瞬間の喜びも、分かりあえなかった苦しみも、それでもようやく同じ痛みを感じあうことができた充足を。
「忘れるはずがねぇだろ!!」
叫んでも何も響かぬようにサスケは笑んだまま表情を変えない。
二年半という時の長さをナルトは誰よりも知っていたはずだ。
サスケを失い、会うことが叶わなかった間。
ナルトがサスケを取り戻すことだけを考えて修行に明け暮れた日々と同じ時間。どれだけの夜を苦しみと共に過ごしただろう。永遠にサスケを失ってしまうかもしれない恐怖に押しつぶされそうになっただろう。
それが今や、他人に言われるまですっかり忘れて、いなくてもそれが当たり前になっている?
大人になったからだ。
大切な人ができたからだ。
所詮友達といっても他人でしかない。交わることはできない。違う、あの時オレたちは間違いなく交わったはずだと右腕が疼く。
これからナルトは家族を手に入れる。ナルトがはじめから持っていなかったもの。待ち望んだ家族を。
(兄弟って、こんな感じなのかなって)
ならサスケは家族ではなかったというのか。
(イルカ先生のこと、本当の家族みたいに思ってるから。……結婚式で、オレの父親役、やってほしい)
だったらサスケにも同じ気持ちにならなければおかしいはずだというのに。
所詮「みたい」は「みたい」でしかなく、本物ではないというのか。
(オレは本当は、そう思っているのか)
いつかの真実の滝に行って、現れるもう一人の自分に問いただしてやりたい。
(そうしたら、あいつは笑って「そうだ」と答えるだろうか? それともオレをぶん殴ってくれるだろうか)
『その必要はないだろう』
ナルトのものではない声が聞こえた。声のした方に振り返る、その先には微笑むサスケがいる。
分かっている。あれは決してサスケ本人ではなく、うずまきナルトが勝手に見ている幻覚で、勝手に創りあげた存在なのだということくらい。
視線を背け、ナルトはベッドに寝転んで部屋を見渡した。引っ越しを控えて部屋は随分と片付いている。それでもこの部屋は、前より少し物が増えた。ヒナタのコップ。ヒナタの歯ブラシ。ヒナタの着替え。枕元にあるハンドクリームも、彼女が持ってきたものを二人で使っている。
サスケの幻は台所に向かった。今はもうないはずのサスケのコップに水を汲んできて、コクリと一口だけ飲んでみせてきた。かつてはサスケの歯ブラシも、サスケの着替えもこの部屋にあった。だが彼は立つ鳥跡を濁さずの言葉の通り何一つナルトの元に残さずに旅立っていった。
サスケと里で一緒に暮らしたのも、たった半年くらいだった。
サスケの幻が、わらう。
「……っ、いい加減にしろってばよ!!」
声を荒げていた。誰もいない部屋で。ベッドの上に立ち上がり、枕を床に叩きつけて。
『結婚を祝ってほしい、大切な人』
昼間ヒナタに言われた言葉が蘇る。
ナルトははっきりと分かったのだ。
自分がサスケに、自分の結婚を祝ってほしくないと思っているということを。
ヒアシとヒナタにサスケを招待しない旨を伝えると、意外そうに目をまるくされ、少しの間をあけた後に「すまない」と頭を下げられまでした。折角の気遣いを無駄にしてしまったのはナルトの方なのにだ。
サスケを招待しないことは、どこからか話を聞きつけてきたカカシにまで驚かれた。だがカカシもサスケの出席については、里の上層や火の国の大名側にも関わる問題だから、と六代目火影としての立場の見解を伝えてくれた。サスケはカカシの六代目就任式への出席も許されなかったからだ。その時はサスケ自ら出席を拒んだのだけれども、もし彼が心から出席を願ったとしてもそうはいかなかっただろうと今なら分かる。
「大人になったんだね」
カカシに向けられた笑顔が少し寂しそうに見えたのは、やはり自分が大人になりきれていないからだろうか。
今はそう信じたかった。
それからまたナルトは任務にそして結婚の準備に忙殺されることになる。日向への挨拶や各里との交流。特に木ノ葉同盟国である砂の風影・我愛羅については外交面でも特に重要なものとされ、ヒナタも同席しての会食なんかも行われた。木ノ葉の里はやはりお祭りムードが続いていて、ヒナタとのささやかなデートでさえ街の人からの目は絶えず注がれていた。
ナルトといえば結婚式が夫になるものと妻になるものの二人だけのイベントではないのだと理解したくらいだったが、それでもなるべく上手く振る舞ってくれるヒナタに感謝しながら、彼女の負担は減らせるように心がけてはいった。結局、変わりのない日々を送ったはずなのだ。
あの日を境に、頭のなかからサスケの存在が離れてくれなくなっただけで。
サスケの鷹が最近飛んで来ることがない理由も何となくだが察していた。それとも鷹は飛んできていたのにナルトが気付かなかったのだろうか。そんなはずはないと必死に首を横に振る。……それほどまでに、周囲の人たちからはナルトがサスケに対する時の諸々は厄介なものに思われていたのだろう。
だからそれに応えるよう、ナルトはサスケを忘れたように振る舞った。
このまま忘れられたらどんなに楽だろう。思春期の若気の至りだと笑い飛ばせるようになったらどれだけ良かったかと、何度思っただろうか。
いよいよ明日に結婚式を控え、独身最後の夜をナルトは自宅のアパートで一人過ごしていた。
「友達と最後にパーっとやったりしないのかよ」とキバには言われたが、ハメを外して明日を台無しにするわけにはいけないと言って断った。
「何だよお前、オレたちより先に大人になっちまって……」
「昔はオレたちの中で一番小さくていつまで経ってもガキだったのにな」
「恋ってこうも人を変えるものなんだね」
口々に言われ、大切な友人たちとは明日の再会を約束して別れた。
皆が祝福してくれている。それなのに、胸中の蟠りは未だ晴れず。
マリッジブルーという言葉をナルトが知ったのは最近だ。結婚の前に、気持ちが妙に落ち込んでしまうことらしい。女性にしかないものだとよく言われているが、今ナルトが陥っているのはまさにそれなのではないだろうか。ヒナタに心配をさせてしまっているかもしれない。だとしたら申し訳ない。
とぼとぼと肩を落としながら洗面所に向かう。冷水で顔を洗ってすっきりさせようとしたのだ。蛇口をひねる。石鹸も、歯ブラシも、コップも、もうナルトのものしか出ていない。それも明日の朝使ったら全部捨てる。新居には新品が揃っている。
ばしゃばしゃと水を何度か顔にかけて、かがめていた身体を起こす。
「ははっ」
思わず笑ってしまった。鏡にうつった自分は、それはもう酷く歪んだ顔をしていて。
こんな顔のまま明日結婚をするのかと、あまりにも情けなくて、信じられなかった。
思い立ったらすぐに行動せずにいられない。誰にも知らせず、一人で、秘密に。
昔は何度もそうしてきた。最近はというと、報告・連絡・相談が大切だとか、一人で勝手にものごとを決めてはならないとか、大人の世界に呑まれて馴染んで忘れてしまっていたその感覚を、ようやく取り戻したのがよりによって独身最後の夜だなんて、幸運なのかそうでないのか判別しがたい。
月の綺麗な夜だった。冴え冴えとした三日月が黄金色に輝くその下。アパートの屋根の上でナルトはあぐらをかいて自然と一つになる。仙人モード。その超常の感知能力で辿るはサスケのチャクラ。彼のそれの感覚は忘れていなかった。その事実があるだけでナルトの気持ちは随分と落ち着きを取り戻した。
昔も似たようなふうにサスケを探したことがある。
あの時も苦しくて苦しくて仕方がなかった。だがサスケ本人に会ってみれば、不思議なまでに胸中の蟠りは吹き飛んでいったのだ。
会いたい。会わなければならない。サスケに。
たとえ旅する彼がここから遠く離れた一晩で辿りつけない場所にいたとしても。
サスケに会ってこの気持をどうにかしなければならなかった。
「……見つけた!」
チャクラの反応は濃い。木ノ葉隠れの里から、砂隠れを目指す方向。そう遠くはない。全速力で走れば一晩で行って戻ってこれるだろう。そんな地点にサスケを感じる。そうすれば次の瞬間にはもうナルトの足は屋根を蹴って飛んでいた。
夜闇に溶け込む漆黒の外套に身を包んだその姿は、しかしナルトには月の光を受けて燦然と輝いて見えた。
「サスケェっ!!」
サスケは切り立った崖の上に立ち眼下に広がる景色を見渡していた。途切れ途切れになった木々の向こうには一面の砂漠がある。その先には風の国。ナルトも何度も訪れた砂隠れの里も確かにあると知っているのに、その砂ばかり広がる大地は地平線の向こうずっとずっと先まで永遠に続いているようにさえ見えた。
名を呼ぶ声に振り返るサスケの髪が揺れる。前髪で片目が隠れている。いつの間に伸ばしたのだろう。肩まである黒髪も、今は右側しか見えない黒い瞳も、それでも決して間違うことはないサスケそのものだ。
「よう」
サスケはほんの少しだけ驚いたような顔をしていたが、しかしすぐに口元を吊り上げてみせた。
「こんな時間に、そんなに慌てて一人でどこに行こうってんだ?」
風が吹く。小さな砂の粒が混じった風だ。木の葉と一緒にサスケのマントがバサリと大きく舞い、翻った空の左腕をナルトは思わず掴んだ。
「お前にどうしても会いたくて」
風の合間に、その声だけが妙にハッキリと、夜の闇に響いた。
地面に腰を下ろして、ただ二人で夜空を見ていた。否、ナルトは星月に照らされ煌めいて見えるサスケばかりを一挙一動追いかけていた。
弱く風が撫でるだけでふわりと揺れるほどにサスケの髪は柔らかく伸びていた。ナルトの方は、短くかりこんだ髪型にもうすっかり慣れてしまったのに。
「……髪、いつの間にそんなに伸びたんだな」
「……ああ」
サスケは自分で自分の前髪を摘んだ。
「邪魔にならねぇの?」
「いちいち切るほうが面倒だしな」
サスケの左腕と、あてのない旅を続けている立場を考えれば至極当然の答えだ。失敗した、とナルトは内心頭を抱える。なんでこんなにもぎこちない会話しか出来ないのだろうか。もどかしくてたまらない。「明日結婚するんだ」と言わなければならないのに、言えないままタイムリミットは近づいてくる。
「それに、伸ばしてるんだ」
意外なことにサスケが会話を続けてくれた。ここぞとばかりに食いついてしまう。
「なんで?」
「……お前を想って」
ゆっくりとこちらに視線を流される。ナルトは顔に火がついたような心地だった。とはいえサスケが得意の火遁や天照を発動したわけではない。老若男女に美しいと言わしめた相貌でそんなことをされれば、誰だって。
「何真に受けてんだ」
くつくつとサスケはおかしそうに笑った。ナルトは誤魔化すように後頭部をかく。まるでそんな恋の願掛けをする少女のようなことをサスケがするはずがないのだ。
「えっ、いや……だってお前ってば、冗談言えるようなキャラじゃねぇだろ?」
「……まあ、似たような理由ではあるが」
旅の最中、輪廻眼の渦模様を例えて『ナルト』と渾名をつけられそうになったらしいことを聞けば、ナルト本人も思わず吹き出してしまう。
「サスケがナルト……似合わねぇってばよ」
「だから隠してる。そんな名で呼ばれるのはゴメンだからな」
「そう言われると何か傷つくってばよぉ」
「まさかこんなところまでお前の影がチラついちまうようになるとは思わなくてな」
嫌そうに言うくせに、サスケの顔はとても柔らかな表情を浮かべている。伸びた前髪をつまんで引っ張ってみせる長い指は白く、彼はまるで嫌がっていないどころか愛し慈しむように、チラつくその影を想っているようだった。
軽く前髪を梳いた右手がそのまま抱くのは途中から失われた左腕。空の袖が垂れている、そこをサスケはきゅっと力を籠めて抱いている。
サスケはずっと、ナルトのことを忘れることなく何処にいても思い続けていたのだろう。
愛が深いやつだ。律儀なやつだ。イタチに関してもそうだった。イタチを忘れて木ノ葉の中で生きていこうとしていた自分さえ許せないような、サスケはそういう男だった。
ナルトには勿論、サスケと同じように考える義務などない。サスケの思いに応える必要もない。長い長い愛を向けられてそれを返さなければならない決まりなんてない。サスケだってナルトに対してそんなことを求めてはいないだろう。
なのに何故。
(こんなに……痛ぇ……)
ナルトはぎゅっと己の胸ぐらを掴んだ。適当に着てきた服に皺がよる。違う。本当に掴みたいのは自分の胸元ではない。
魂の底からの衝動に突き動かされるままにナルトはサスケの両腕を掴んでいた。
「オレっ!!」
叫ぶように大きな声に、驚きに一度びくりと肩を揺らし、目を見開いたサスケ。無表情なようでいてよく見れば感情表現が豊かな彼と真正面から向かいあう。
「明日……結婚するんだ」
長い間言えなかったことをいざ口に出してみれば、やはり苦しかった。
愛する人との結婚は嬉しいはずなのに、ちっともそんな感情が湧いてこない。同期の誰に報告するときも、こんな気持ちにはならなかった。サクラに対しての時だって、今までの感謝と一緒に、彼女に笑顔で祝福してもらえた喜びで心が満たされたというのに。こんな風にナルトをさせるのは、サスケただ一人だ。
洗いざらい全てを話した。ここに来るまでに至った、サスケの知らない経緯を全て。
頭を垂れて吐露するそれはまるで懺悔のようで、顔を上げたとき、サスケがあの幻と同じ笑みを浮かべているのではないかと思うと怖くて仕方がなかった。
「ナルト」
落ちてきたサスケの声は酷く平坦だった。おそるおそる顔を上げる。伸びた前髪に顔の半分を隠されたサスケは笑っているのかそうでないのか分からなかった。
「鋏持ってるか」
「……は?」
……サスケの言い出してきたことの意味もあまりにも唐突過ぎて意味不明だった。
「鋏」
「……いや、持ってねぇけど」
「なら、クナイでもいい。……髪を切ってくれ」
「え?」
「お前さっき訊いてきただろ、『邪魔じゃないのか』とな。言われてみれば確かにその通りだ。これから砂漠を越えなきゃならんし、丁度いい。自分でやるより、お前に任せたほうが具合がいいだろうしな」
そう言ってサスケはくるりとナルトに背を向ける。先を促すように。
ナルトはポーチからクナイを取り出した。サスケの反応はあまりにもナルトの予想の斜め上を飛んでいきすぎていた。突っ込みさえ思いつかないほどにだ。何故結婚することを告げて、独身最後の夜だというのに、サスケの髪を切らなければならないのだろうか? 肩まで伸びているサスケの後ろ髪は、触れればサラサラしていて柔らかい。まるで女のそれのようだとさえ思う。
昔くらいの長さにしてやればいいだろうか。黒髪の一束を摘んで、右手に握ったクナイをあてがう。
切断されたサスケの一部がはらりと落ちていく。微かな風が吹いただけで、黒髪は追いかける間もなく闇の中に掻き消えていく。ざり、ざり、とクナイで髪を裁ち落とす音が繰り返される。
サスケの髪は、長いうちはすっかり大人しくなっていたのに、短くしただけですぐに昔のように重力に逆らって跳ねていく。そういうクセがついているのだろうか。その様が妙に愛おしくて、切ったところをくしゃくしゃにかき回して余計に跳ねさせてやった。
あらかた切り終えて、細かなところも整えてやる。自分には散髪の才能があるのではないかと唸るほどナルトはその出来に満足した。
「……ナルト、前髪も頼む」
振り返って、サスケの前だけ長い髪が揺れた。もみあげ周りの横髪は昔から長かったが、目を覆い隠すほどの髪は確かに最も邪魔だろう。サスケの正面に向かって、ナルトは前髪を持ち上げてやった。サスケは目を閉じている。睫毛がこんなに長かっただろうか。きゅっと閉じられた瞼がふるふると震えている。髪を切られるのが怖いとでもいうのだろうか。何度も死闘をくぐり抜けてきたはずのサスケが、何故。これ以上ナルトがサスケの身体に傷を追わせることもないに決まっているのに。
『伸ばしてるんだ。……お前を想って』
不意に、ついさっき聞いたばかりのサスケの声が頭の中に響く。まるで目の前にいるサスケ本人が発した声になることを許されなかった声のようだった。
サスケは冗談を言うような性格ではないと、これもまた先ほどナルト自身が思ったばかりだ。息を飲む。世界の時が停止したような感覚にナルトは落ちていく。
髪を伸ばしているのだと言ったのに、すぐに言葉を翻して「切ってくれ」だなんておかしいではないか。
意地っ張りで、頑固で、かたくなで、ぶん殴ってでも言うことをなかなかきいてくれやしない。それがサスケだ。
ナルトの知っているサスケだ。
前髪を掴んで、クナイをあてて。それでも訪れない視界が開けるその時に、サスケはしびれを切らしたように目を開く。現れた模様は渦。清廉な水面に投げかけられたような波紋。成る程、これを鳴門巻きに例えるのなんて、本当に子どもの発想だ。ちっとも似てやしない。なのに。
サスケは、何を、ナルトに切らせようとしているのか。
クナイを持つ手を下ろす。サスケの前髪がはらりと落ち、整った顔を再び隠した。後ろ髪は短く跳ねている。少々アンバランスな髪型だ。
「何だよ」
サスケがわらった。挑発するような、或いは今にも泣き出しそうな。そのどちらにも見える複雑な感情の溢れた顔をして。
「お前は、なんで、いつも、オレを切らねぇんだ」
やはりそうだったのだ。
サスケがナルトに髪を切らせようとした意味は。
サスケの伸ばされた髪は、ナルトとの繋がりの糸そのものだったからだ。
それはナルトにとって、絶対に切ってはならないものだった。
二人がぶつかりあったあの谷で、ようやく取り戻したそれを、結びあった糸を、どうしてこんな些細なことで切ることができようか。
未だ幼いあの日、河川敷でひとり歩くナルトを、桟橋にひとり座るサスケを、互いに見つけ、か細くも繋がった糸を。
切れるわけがない。切る必要だってない。長く長く共に在ることを信じ続けたそれを。
「奇遇だな」
すっかりクナイをポーチに戻し、サスケも自分で髪型を整えた後だ。
「オレもお前の結婚を祝いたいと思えない」
「……やっぱり?」
後ろ髪のすっきりして、白い項が着直した外套からチラリとのぞくサスケにそう言われると、なぜだか妙にしっくりときた。
「いいんじゃないか? オレたちはそれで」
サスケの言う通りだ。何を恐れていたのだろう。
結婚を祝って欲しいと思わなければならない決まりも、結婚を祝おうと思わなければならない決まりもない。それで友達だとか、兄弟だとか、そういう関係が否定されるわけではないのだ。
サスケと同じ気持ちだったことが嬉しくて、ナルトは沈んでいた気分が一気に晴れやかになり、身体が軽くなった。まるで背中に羽でも生えたかのように。
「オレ、お前の結婚式も、祝いたいって思わないかもしれねぇ。お前の結婚式に出てるオレが想像できねぇ」
「オレがまさに今そうだ。……それでもいい。オレたちは、そういうことで」
「そうだよな」
「きっとそうだ」
寝不足みたいなやりとりは可笑しくてたまらなかったけれど、言葉の意味が定まらなくとも、サスケの後ろ髪が長くても短くても、ふたりは確かに繋がり交わり、通じあっていた。
「……お前のとこ来て、本当に良かった」
返事の代わりにサスケは短くなった髪をくしゃとかき回した。
「……また伸ばすのか?」
「さあな」
「伸ばせよ。オレを想ってさ」
サスケは目をまるくした。うまいこと言ってやれて、ナルトはしたり顔を見せてやる。サスケに対して優位をとれるのはいつになっても嬉しい。
「……ああそうだ、もう一つ。お前に頼みたいことがあった」
ごそごそとサスケが懐から取り出したのは、青い長い布きれだった。ターバンだ。
「巻いてくれないか」
これから砂漠を越えるのに、巻いていたほうが都合がいいのだという。
「そんなもん、巻いたことねぇからよく分かんねぇってばよ」
「オレもいつも適当だ」
「いいのかよ、そんなんで」
青いターバンを受け取って、ナルトはサスケの頭に巻きつけていく。跳ねた髪を押さえつけるようにしたら、不格好になってしまったかもしれない。
「これでいいか?」
首を傾げながらも巻き終える。ざあ、と吹いた風に、余った布がひらひらと舞う。向かい合ったサスケは今まで見たことがないくらいに綺麗だった。ナルトの身体は勝手に動いていた。サスケの肩を掴んで、抱き寄せて、顔をキスしてしまうくらいに近づけて見つめあった。鼻先を鼻先が掠める。
サスケの渦を巻いた瞳を。ナルトのことを決して忘れられない証のような目を。ナルトもまたその瞳に刻みつけた。
魂の奥の奥のほうでは、きっとナルトもサスケも、自分が自分で無い時から、その意味を知っていた。
悠久の時を越え、ようやく願った場所に、世界に、辿りつけたように、魂の底で誰かたちが笑う。
この魂の片割れが存在すれば、きっと自分はいつまでも変わらないでいられる。
夜が明ける。二人は踵を返しあい、それぞれの道へと旅立つ。
独身最後の夜が終わる。今日は結婚式だ。
THE LASTを地上波で見た感想的な話です。EDのサスケの出方は本当に驚いた…。ターバンは大筒木が結婚式のときに身に付けるものだって列の書が言ってた。桃源郷は「諦め」のような意味が含まれるらしいのでタイトルにつけました。
Text by hitotonoya.2016