朝がこなければいいのに

 

 この広い家でひとりになってから何日経ったかなんて数える気もおきなくて、今日が何月何日なんてどうして知ることが出来ただろうか。

 雨が降る日が多くなった。アカデミーへの通学路はいつも静かで、あちこちに新しい蜘蛛の巣が張っていて雨粒がいくつも巣に捕まっていた。小さな傘に隠れて校舎にたどり着くとようやく人の声が聞こえる。あの日から、サスケの世界には薄く濁った透明な幕が降りた。鮮やかな色彩も少年少女の無邪気な声も全てがぼやけて、まるで窓から見える景色のように、雨が常に振り続けているようだ。

 赤い紫陽花が咲いている。土が酸性かアルカリ性かで色が変わるんだなんて、くノ一クラスの誰かが話していたのをぼんやりと思い出す。本当かどうか聞いてみようか。そう一瞬だけ考えてしまって、サスケは唇を噛み締めた。こんなにもうるさい教室の中でも、サスケはたったひとりだ。

 先生が入ってくると騒いでいたクラスメイトたちは一斉に自分の席に戻る。窓越しの雨音だけが聞こえる教室で先生が口を開く。「日直、日付直し忘れてるぞ」誰に話しかけているのかサスケには分からなかった。だが先生の視線は間違いなくこちらを見ている。黒板の日直の欄に書かれているのはうちはサスケの名前だった。サスケは立ち上がってとぼとぼと歩く。

「……今日は……」

 チョークを掴んで黒板に向かってもぼんやりとしているサスケに、先生はなにか思うところがあったのだろうか。いつもは厳しいはずなのに、「六月八日だ」と囁いた。チョークがくるりと2つの円を描き、石灰の粉がぽろぽろと落ちる。ひどく緩慢でスローモーションを見ている気分だった。

 いつの間にか六月になっていたらしい。

 つまらない授業が終わりサスケは家に帰る。しとしとと振り続ける雨から逃げるように玄関に駆け込む。薄暗く静まり返った家。ただいま、と言いかけた口を塞ぐ。そんな言葉を発したところで誰もいないこの場所では虚しさが胸を締め付けるだけなのだとたくさんの失敗の中で学んだ。

 居間には壁掛けのカレンダーがあった。家族全員のスケジュールが書き込める、絵もないシンプルなものだったけれど、サスケは毎月一枚ずつその紙を剥がすことを密かに楽しみにしていたのだ。しかし今それはあの夜から一枚もめくられておらず、この家の時間が止まってしまったことの象徴のようだった。

 踏み台を運んで、サスケは壁のカレンダーに手を伸ばす。いつもこのカレンダーを外してくれたのは兄だった。父は新聞を読んでいて、母がサスケとイタチに声をかけて、イタチがカレンダーをとって床に置く。そうしてビリビリと音をたてて次の月に変えるのがサスケの役目だった。

 同じようにサスケはひとりでカレンダーをとり、床に置く。実現されることのなかった予定のたくさん書き込まれた紙をめくっていく。しばらくそうしていると六月になった。赤いペンで書き込まれている。大きな花丸が目を引いた。前にサスケが書いたものだった。い

 びつな花丸は、一つは一日についている。『母さんのたんじょう日!』と書かれている。祝うことも、思い出すことさえできなかったその日にサスケは思いを馳せる。普段忙しい父も仕事が終わるとすぐに帰ってきて、皆で外食をしに行ったのだ。普段より豪華な食事に、サスケは母の誕生日を祝うことよりもはしゃいでしまったっけ。

 日付をたどっていく。今日は八日。その隣にふたつめの花丸があった。『兄さんのたんじょう日!』。踊る文字はサスケの目を潤ませた。カレンダーのその日の位置をわし掴むように引っ掻いていた。

「オレ、お小遣いためてね。来年の今日には、もっとすごいもの、プレゼントするから!」

 似顔絵くらいしかあげられなかったのにイタチは毎年笑顔でサスケの頭を撫でて喜んでくれた。貯金箱の中には少しずつためたお小遣いが今でもつまったままなのに、ここにはイタチはもういない。母さんも父さんも、イタチが殺した。みんなイタチが殺した。今までの笑顔は全部嘘だったのだと冷たい眼をサスケにつきつけてどこかへ行ってしまった。

 あんなことがなければ、本当なら、今頃自分はどうしていただろう。授業を終えて走って家に帰ったら、貯金箱を割っていたに違いない。お小遣いを財布につめて、街に出かけただろう。兄をあっと言わせるようなプレゼントを買いに。何を買おうとしていたのか、もう思い出せない。兄は甘いものが好きだったから、母はケーキを焼いただろうか。それとも美味しいと女子の間でも評判の店でホールケーキを注文しただろうか。

 ぼとぼとと雫が溢れる音がする。窓の外の雨は止まない。引っ掻いた花丸の赤いインクが滲んでいる。

 サスケは首を横に振った。こんなことを思い出していてはいけないのだ。在りし日を恋しがってはいけないのだ。

(恨め、憎め)

 あんなやつなんて生まれてこなければ良かったのだ。

 そう思わなくてはならないのだ。

 明日なんて来なければいいのにと、インクの滲んだその日にサスケは拳を何度も叩きつけた。

 

 

 

 しとしとと緩い雨が振り続けている。イタチが木ノ葉に降り立ったのは真夜中だった。あの夜飛び散った血は幾千も降り注いだ雨粒が洗い流し、うちはの居住区に残るのは静かに立ちつくすだけの町並みだけ。それも今や蜘蛛の巣が張り、曇った窓の内側には埃が積もっている。

 居住区のどの家にも明かりはついていなかった。時間も時間なのだから当然なのだが、イタチが気がかりだったのは、この地区でただ一つだけ、今でも人が住んでいる家のことだった。それはイタチの生家でもあり、あの夜最後に人を殺した場所だった。

 たったひとり残された弟は、本来ならば寝ているだろう部屋にはいなかった。

 それだけで心臓が早鐘を打ち始める己の身体にイタチは苦笑する。玄関に小さな靴は一足、綺麗に揃えられてあったのだ。家の中のどこかにいるだろう。そう見当をつければすぐに弟は見つかった。

 小さな身体が居間の床に落ちていた。

 赤ん坊のように身体を丸めたサスケの周囲には紙が散らばっている。壁にかけてあったカレンダーだ。赤い水性ペンで書かれていた文字が水に滲んで読めなくなっている。

 ゆっくりと抱えあげればサスケの眦や鼻が赤くなっていた。そっと触れれば涙の乾いた跡があった。泣き疲れて眠ってしまったのだろう。アカデミーから帰ってきたままであろう服の、胸元はゆっくりと上下しているけれどこのままでは風邪を引いてしまうだろう。

 できれば風呂にも入れて、着替えさせてやりたい。そんな気持ちを心の奥にしまい込む。イタチはサスケに対して冷酷であらねばならなかった。もう二度とあの頃のように兄として傍にいてはならないのだと、決心して任務に臨んだのだから、ここで衝動を抑えられなければ自分の決断には何の意味もなくなってしまう。

 眠るサスケを抱きながら、慣れ親しんだ家の階段をのぼる。サスケの身体は軽かった。ほんの少し力を込めればすぐに殺せてしまいそうな儚さだった。けれどもイタチには、その行為だけは他の何をしても出来なかったのだ。

 サスケの部屋は、十にも満たない子どもが一人で過ごすには広すぎる。この家ももちろんそうだ。

 床に比べたらずっと柔らかいベッドにサスケの身体を横にする。掛け布団を動かしてやっていると、僅かに衣擦れの音が響いた。それが刺激になったのだろうか。ぴくぴくとサスケの瞼が動く。

「ん……」

 まずい、と理解したはずなのに身体は動かないことにイタチは驚く。そうこうしているうちにサスケの黒い瞳が半開きの瞼から現れる。白目に幾分赤色が残っている。ぼんやりとサスケはイタチを見つめ、そしてにっこりと笑った。まるであの日のことなんか全てなかったかのように、いつもの日常の、ねぼけたサスケそのままの顔で。

「へへ、兄さん」

 抱っこして、と言わんばかりの手が伸ばされる。イタチがその手をとっていいか躊躇っている間にサスケの手は彷徨っていた指をやわらかく握った。まるで赤ん坊の頃のようだった。

「今日、何の日かオレ知ってるよ。兄さん。お誕生日おめでとう。……どう? オレが一番乗りだろ?」

 サスケの目ははっきりと開いていない。紡がれる言葉もどことなくおぼつかない。彼はまだ夢の中にいるのだろう。滲んでいたカレンダーは六月のものだった。誕生日なんてものがあったことをイタチはすっかり忘れていた。あの日からすっかり時が止まってしまったような感覚だった。窓の外では雨が降り続いている。庭先には紫陽花の花が咲いていた。いつの間にか六月になっていたのだ。

「お小遣いためて……兄さんにプレゼント買ったんだ。猫バアのところで……ちょっとしか買えなかったけど、手裏剣、兄さん、任務で使ってほしくて、それで、時間あったらでいいから……オレにもまた、修行つけてくれよな。……ね。いいだろ?」

 伸ばした手には何も握られていなかったが、サスケの夢の中ではそこにイタチへの贈り物が確かに存在しているのだろう。ねだるような声に、忍としての抑制を身体が勝手に振り払っていた。

 サスケの身体を抱きしめる。小さな身体は冷えきっていた。最後に抱きしめた遠い記憶では、驚くほど体温が高かったはずなのに。

「うわっ、痛いって、兄さん、そんなに嬉しかった? ……へへ、オレも、うれしい」

 心から嬉しそうに口元を綻ばせながら再び微睡みの中に落ちていく弟に安堵しながら、イタチは腕の中のそれを思い切り抱きしめた。言葉にできないような気持ちの波が身体に、頭の中に、押し寄せて全ての制約を押し流していく。

 このまま一緒に連れ去ってしまいたい。決して許されることのない願いに心の中で首を横に振りながら、サスケの跳ねた黒髪の隙間に指を差し入れて撫でる。寝息が肌をくすぐる。すっかり穏やかになった。サスケを寝かしつけるのは昔から得意だったのだ。

 しとしとと雨は未だ止まない。傍らに置かれた目覚まし時計も長針と短針が重なったばかりだった。今日という日は始まったばかりで、夜は未だ長い。

 せめてサスケの体温が戻るまで、このまま抱きしめることくらい自分に許してもいいだろうか。

 今日だけは。

 サスケの手がイタチの服をぎゅっと掴んでいる。細い、しかし日々の鍛錬の跡が確実に見えるその指をゆっくりと解きながら、イタチは愛しい弟の寝顔に微笑んだ。

 

2015.06.09

兄さんお誕生日おめでとうにしては辛気臭いです。なんとなく紫陽花を登場させたのでなんとなく紫陽花を調べたら万華鏡って品種がめちゃくちゃサスケの永万っぽくてイタサス…ってなりました。

Text by hitotonoya.2015
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