清冽なる棺に眠る

 

 その身体は手術台の上に横たえられ、安らかに眠っていた。閉じた両瞼から頬、顎を伝って血の涙の痕がこびり付いている。唇の周りも喀血で汚れている。服はボロボロで、腕も脚も、痩せ細って骨ばって弱々しい。これがあのイタチなのか。サスケはゴクリと唾を飲み込んだ。サスケに何度も死の恐怖を味わわせた、うちはの天才。圧倒的な実力を秘めた忍。サスケ自身もその身に叩きこまれた体術・忍術・幻術の数々がこんな繊細で今にも壊れそうな身体から放たれていたなどと、にわかには信じられなかった。それほどまでにサスケは長い間兄に触れておらず、間近で触れ合ってもいなかったのだ。

 ツンと鼻を刺す薬品のにおいに眉を顰めながらサスケはイタチの瞼に触れる。

「開けない方がいい」

 トビが低い声で制する。続きを聞く前にサスケは手術台の奥に聳える壁を見上げていた。夥しい数のガラスケースの中に詰まった液体。その中に気泡と共に浮いている同胞の眼球。木ノ葉に写輪眼を渡さないためにあの夜に回収したものだとトビはサスケに説明した。ゆらりゆらりと上下する眼球たちはどこを見ているのだろうか。最後にその目が写した光景はどんなものだったろうか。サスケは再び視線を下ろす。長い睫毛に黒くなった血がこびりついたイタチの瞼。開いてもそこには虚の闇しかないことは分かっている。

「……イタチが自分の目をどうしたいと思っていたかはお前にも分かっているだろう」

 だから既にここにイタチの目はなく、保存液のケースの中に収められているのだと。血の匂いがする。傍らに並べられた手術道具。銀色のメスの横に未だ新しい、血のついたガーゼがあった。

「……イタチはこれからどうなる」

「死体をこのままにしておけば腐るだけだ」

 トビの言うことは至極当然だった。

「うちはの墓には、イタチは入りたがるだろうか分からんがな」

 傍には既に棺が用意されていた。サスケは一瞥して、イタチの投げ出された手をとった。指先も、手のひらも、血で赤茶色に染まっている。

「イタチの身体を、清めてやりたい」

 トビは仮面の奥の写輪眼でサスケを睨むと、一呼吸置いて、いいだろう、と肩を竦めた。

 血を流すことを良しとしなかった、平和を愛するイタチが、血に塗れたまま永遠を過ごすなんてサスケは酷く残酷に思えたのだ。

 

 

 アジトの奥には泉があった。どこかから絶え間なく水が滴る音がよく響いた。抱きかかえてきたイタチの亡骸を布を敷いた地面に寝かせると、まずは服を脱がせる。血がこびり付いた布をゆっくりと丁寧に引き剥がしていく。露わになったイタチの肌は血の毛が引いた白色をしていて、冷たかった。いつか抱きしめてくれた胸も、おんぶしてくれた背中も、みんなみんな、思い出した記憶の中の暖かさが嘘だったかのように冷たくて固かった。患って細くなっているとはいえ、兄の身体はサスケの記憶の通り追いつけない大きさのままだった。身にまとっていた服を全て取り払って、力ない背中を支えながら起こす。汚れた背中に、幼少の記憶が蘇る。ずっとずっと小さな頃に、イタチと一緒に風呂に入った。サスケがアカデミーに入学した歳にはもう暗部の一員として活躍していた兄の背中を流した。拙くタオルを動かした。力加減はどうだったのだろうか。イタチは笑って、気持ちいいよ、と振り向いてくれた。

 結われていた髪をほどく。サラリと流れる黒髪がサスケの指先を擽る。ところどころ泥や血がついている。髪も洗ってやらなければ。ぴちゃん、ぴちゃん、と滴る水音のする方を向く。泉は先が暗闇で見えないほどに広かった。水面は静謐で穏やかだった。

 イタチの身体を運ぼうとして、サスケは自分の手や衣服もまた、イタチの血や泥で汚れているのに気づいた。暫し己の手とイタチを交互に見つめて、サスケはシュルリと腰の縄を解いた。パサリと落ちる腰布。イタチと同じように服を脱いで裸になって、それからイタチを抱えてサスケは裸足を水面に沈めた。冷たい水の中に肌色が揺らめいていく。血や泥や埃がサラサラととけだしていく。イタチの長い黒髪がふわりと浮かんで広がる。

 イタチを抱きながら肩までサスケは水に浸かる。水に体温はどんどん奪われて冷たくなっていく。イタチにつけられた傷に水が染み渡りズキンと傷んだ。だがサスケにとって己の痛みなどどうでも良いことだった。

 濡れた手のひらでイタチの頬を撫でる。こびりついていた汚れを拭う。指の腹と、イタチの痩せた頬。吸い付くように同じ温度になっていた。水を掬って、繰り返しイタチの顔を清める。ほつれていた髪も丁寧に手櫛でほぐす。身体中についていた血を全て拭うようにサスケはイタチの身体を撫でた。兄の形を、大きさを、存在を確かめるように。その存在をしっかりと記憶するように。

 太腿にある真新しい切り傷は深かったが血は最早出なかった。サスケが先日の戦いでイタチに負わせた傷だった。肌に刻まれた傷はもう二度と治ることがないのだろう。肉の色が見えるそこはなぞると肌と触感が異なる。滲みるだろうか。痛むだろうか。既にそんな感覚などイタチからは失われているというのに。

 指先を持ち上げる。指の間も丁寧になぞる。爪紅をしている。ところどころが剥げている。塗りなおしてあげたいとサスケは思った。

 首筋の浮いた鎖骨に水がたまっている。かと思えば筋肉のついた胸は意外と逞しく張っているし腹筋も割れている。くぼんだそこに汚れがこびりついていたから、皮膚を傷つけないくらいに引っ掻いた。その横では肋骨が手に当たって固かった。

 くすぐったいぞ、サスケ。

 頭の中に響いた声は優しくて、それが幻聴だと分かっていてもサスケは手を引いてしまった。唇の端が持ち上がって、にいさん、と幼い頃呼んでいたふうに口は動いた。

 イタチを抱きしめる。すっかり皮膚の温度は同じになっていて、まるで彼と同じ皮膚でつながって、同じ身体を共有しているような感覚になる。どくん、どくん、と脈打つ鼓動が、自分のものでなくイタチのもののようにさえサスケは思えた。間近で見る、閉ざされた長い睫毛にまるで花弁が水を湛えるように玉がつくられていた。その奥にある闇の虚さえ恋しくなって、サスケはその瞼に唇を寄せていた。睫毛が揺れる。瞼はぴくりとも動かない。そのかたく冷たい皮膚の感触を、イタチのそれと同じ紫色になった唇で味わった。

「にいさん」

 下腹が締め付けられるように疼いた。こみ上げる熱のような衝動。抱きしめたイタチの身体に、それが当たっているのがわかった。

「にいさん」

 自分はおかしいのだとサスケは笑った。

 失ってはじめてこんなにもイタチを、心も身体も求めているのだと思い知ったのだと。

 水の中に力なく漂うイタチは目を閉じたまま、うすく開いたままの唇は何も紡がない。抱き返してもくれない。それでもサスケは冷たい水の中、イタチを抱きしめ続けた。まもなくイタチは棺に入る。白い衣を纏って、土の中に埋められる。それまでの短い間、少しでも、サスケは大切な兄と感覚を共有していたかった。

 頬から水が流れ落ちる。脚を絡ませてもイタチは漂うだけだ。それでもいいのだとサスケは叶うことない望みを瞼の裏側に思い描いていた。

 

2015.02.16

こういう不安定なサスケの傍にいたのがオビトがオイシイポジションだなーと思いました。

Text by hitotonoya.2015
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