神代凌牙として生きた短い時間は、誰かに操られてばかりだった。
一から十まで用意された復讐の道を、それとは知らずに歩かされていたのはつい最近のことだ。トロンの企てた策略にまんまと嵌められ、紋章という人知を超えた力で記憶まで書き換えられて凌牙は操り人形として闘わさせられた。自我を奪われただただ支配者の操る糸の導くままに。その感覚は虚無。虚しさだけがさみしく、からっぽになったあたまとからだに残されている。
或いはナンバーズ。同じく人知を超えた力を持つ不思議なカードの力に、凌牙は度々支配されかけ、またはその闇に飲まれた。
あのどろどろとした闇が身体中に重くまとわりつき、飲み込まれ、貫かれる際の苦痛と不快といったら!
だからこそ凌牙は幾度となく叫んできた。俺は俺だ。もう何にも操られない。それは決意の証。自分自身の歩く道は自分自身で選択し決定するのだ。
人間であることを捨て、バリアン七皇のリーダー・ナッシュとして闘う道を選んだのも紛うこと無くナッシュ自身の意志であった。例えそれが……元を辿ればドン・サウザンドによる記憶の改竄であったとしても。
ここまで来たら引き返せない。引き返してたまるか。バリアンとして生きることを決意したナッシュにとって、仲間達が皆過去にドン・サウザンドに操られ、記憶を改竄され、無理やりにバリアン世界へと引き込まれたのだという事実は己の存在を揺るがすほどの衝撃であった。だがそれはあくまで前世のこと。はるか遠い過去で人間だった頃の話だ。今はナッシュも、七皇たちも、バリアン世界に生きる魂。ならばこの決意は誰にも操られていない自分自身で選びとった道。そうナッシュは信じ、己を奮い立たせて闘った。三世界全てを滅ぼし君臨しようとしたドン・サウザンドを遊馬、アストラルと共闘しそして勝利した。
大の字に倒れ伏したドン・サウザンドはしかし敗北して尚不敵に笑う。その双色の眼には絶望の色などちっとも映していない。ナッシュは息を呑んだ。底知れぬ神の眼が、自分に向けられたからだ。
「我が滅びようとまだ本当の呪いは解けていない。お前たちはすぐにそれを知ることになる。カオスこそが命の源。カオスこそが無限なのさ……。ナッシュ、分かっておろうな?」
うっすらと笑いながら語られた言葉。次の瞬間にドン・サウザンドの肉体は禍々しく赤黒い闇と化す。彼がその身に吸収してきたナンバーズ。その譲渡がドン・サウザンドという存在を構成していたカオスを伴って行われようとしているのだ。せめて宿敵アストラルに吸収されまいとする、彼なりの最後の悪あがきなのかもしれない。天に昇った混沌は、迷うこと無くナッシュめがけて降り注ぐ。身構える間もなく、ナッシュはその身のうちにおびただしい数のナンバーズと、ドン・サウザンドの力、そしてそれが吸収してきた何十億もの魂を受け入れさせられる。
それはきっとおそろしく、そして気持ちの悪いことだと思った。
ドン・サウザンドの、勝利を確信したような笑みが走馬灯のように過る。きっとその邪悪な意志がナッシュの身体の中で暴れまわるに違いないと思ったのだ。ナッシュを支配しようとその暴虐な力を駆使するに違いないと。だがナッシュもやすやすと己の意志と肉体を明け渡す気はなかった。ドン・サウザンドの力に対抗しようと決めていた。
なのにどうしてだろう。ナッシュの身体のうちにするすると入っていく膨大な混沌はまるでヒトの身体をめぐる血のように、なんの違和感もない。それどころか、まるで、暖かく、優しく、ナッシュの決意を後押ししてくれるような。
「遊馬、アストラル」
ナッシュはもう抵抗するということさえ頭の中からすっぽりと抜け落ちていた。自然体で立ち尽くせる。驚くほどなめらかに言葉を紡ぐことができる。
ナッシュから発されたのは、ドン・サウザンドと闘う前から決めていたこと。共闘したとしていつかは告げねばならなかった言葉。
「このナンバーズ……渡すわけにはいかねぇ!」
力強く言い切ると、身体が宙に投げ出される、そんな感覚に包まれた。
いつの間にか閉じられていた瞼を開く。目の前に広がっているのは世界だった。赤く燐光を放つ鉱物に、人間世界でいう建築物が飲み込まれている。ピンク色に水色や紫の透けた蓮華のような花があちこちに咲き誇っている。バリアン世界と人間世界が融合しているのだ。先ほどまでは滅びの日のように荒れていたその空は、穏やかな闇に包まれている。静かで優しい夜だった。ナッシュはそれを宙から見下ろしていた。漂う光のように。
「よく我が元へ帰ってきた、ナッシュ」
囁かれる名前に振り返ると、すぐ傍に彼はいた。洪水のような黄金色の長髪を空に広げて、ナッシュの傍らで、同じ青と赤の双眸で、同じように夜を見下ろしている。唇に浮かべているのは微笑み。まるで世界を愛おしむ神のように、ドン・サウザンドはそこにいた。
その表情を見れば何故だろう、ナッシュは最早彼に憎しみの感情が沸き起こることはなかった。大切な仲間の人生を狂わせ、自らの欲望のためだけにバリアン世界の全てを糧としようとした存在に、ナッシュは怒りさえも抱けずただ彼の向けてくる穏やかな視線を受け入れることしか出来なかった。
「美しい世界だろう。我が……否、お前が手にする世界だ」
ドン・サウザンドの大きな手が優しく肩を抱く。ナッシュや他のバリアンたちとも異なる、むしろアストラル世界の存在に似たドン・サウザンドの肌は大いなる宇宙や、母の胎内を思い起こさせるような優しい闇色だ。
「そしてお前はこの世界を手中にするに相応しい力を得た」
微笑むドン・サウザンドをナッシュは見上げる。
「それはお前の力じゃないのか」
胸の中心に手をやる。そこはドン・サウザンドの存在そのものを注ぎ込まれた場所だった。世界の神にならんとしたドン・サウザンドが、自ら以外の存在に『世界を手中に』などと言うはずがない。もし言うとするならば、やはりドン・サウザンドはナッシュの肉体をその圧倒的な力を以って支配しようとしているのだろう。……そう理屈をこねながらも、ナッシュは本当は分かっていた。その身を以って。内に注がれた力が少なくとも今はナッシュの身体をどうこうする気などないということが。
不思議な感覚だった。ドン・サウザンドの力も魂も、間違いなくナッシュは己の中に感じながら、しかしドン・サウザンドに優しく抱かれているような。そんな感覚が、今まさにナッシュの目の前に消えたはずのドン・サウザンドを見せているのだろうか。
「否、お前の力だ、ナッシュ」
ナッシュが胸にあてた手にドン・サウザンドがそっと指を触れさせる。指の隙間からゆっくりと解かれて、ナッシュの手のひらは払われて、胸の中心に輝くバリアンの紋章の赤い宝玉にドン・サウザンドが触れる。ぞくりと背筋が震える。しかし決して不快なものではない。
「短いようで長い旅だったろう。人間としての二度目の生は」
宝玉を撫でながらドン・サウザンドは笑う。ナッシュは目を皿にした。
「これほどまでに力をつけて帰ってくるとは、我も予想外だったぞ」
それはまるで父が子に向けるようなものであった。朧げに残る神代凌牙の記憶、更に遡れば海上の帝国の記憶。そこでナッシュが褒められる際に見た父の表情が、まるでドン・サウザンドの今の表情と同じだったのだ。
「お前のその混沌たる欲望は、バリアン世界で過ごしていただけではそれほどまでに強大にならなかっただろう。我を打ち倒し、神の力を受け入れる器となれるほどにはな。やはり短い間とはいえ、人間界へと送り込んで正解だったようだ」
「貴様にとっては……俺たちは、復活のための餌でしかなかったんじゃないのか」
「その通りだ。ナッシュ。お前が我に歯向かった上で敗北するというのなら、お前も他の七皇と同じく我の糧となるはずだった。だがお前は力を示した。神たる我を凌駕する力を。何故アストラル世界が滅びの道を辿ったか分かるか? 己が代の繁栄のみを考えたからだ。かつてお前も一国の王であったならば分かるだろう? 世界もまた同じだ。連綿と続く永遠の栄えを築くのに必要なのは次代、その次代を治める力を持った後継。我にはそれが必要だった。だから育てなければならなかったのだ。お前を、次の神に」
「なんで俺が」
「人間界へと落ちた衝撃はよほど強かったのか、それともあの海の神から戻された記憶が不完全だったのか。まだ思い出せていないのだな」
妖艶ささえ感じさせる唇が紡いでいく言葉からナッシュは目が離せない。
「ドルベ、メラグ、ベクター、ギラグ、アリト、ミザエル。奴らは我がその記憶に改竄しバリアン世界へと導かれてきた。……だがナッシュ。お前は違う。お前は自ら我が元へ来た。その時にお前は我に願った。この世界を導かせてくれと。お前は自らの足でバリアン世界までやってきた。たかが人間の身でありながらな。それほどまでの混沌、育ててみる価値があるだろう?」
「じゃあ、俺は」
震える拳を握りしめる。
「……だが一度俺は、ベクターに殺されている。なのに」
ゆっくりとドン・サウザンドの指が動く。胸を撫で上げていく。そのあたたかな感触にナッシュの激情はすべてかき消される。つくられたばかりの拳から力が抜けだらりとさがる。それは決して頭のなかがからっぽにされるわけではない。穏やかな水面のように、全てのものごとを冷静に考え受け止められる状態に落ち着かせてくれただけだった。
「我はお前に何もしなかった……だが決してお前を見捨てたわけではないぞ、ナッシュ。我には全てを見通す力がある」
ドン・サウザンドの優しい闇色の手のひらはナッシュの頬へと触れた。神の顔が見上げたすぐ傍にある。我が子を愛しむように両の頬を包まれて、瞳を覗き込まれる。
「人間界ではこのような言葉があるそうだな? 可愛い子には旅をさせよ。我が混沌を受け継ぐ者よ」
額と額がついに触れ合ったその瞬間、今まで失われていた記憶の全てがナッシュに蘇った。
バリアン七皇のリーダーとして過ごした永い永い時。古代の海の王として君臨した前世、全てを失った果てに守るべきだった者を追いかけてバリアン世界へとたどり着いた記憶。赤い世界の門の前で叫んだ。己の望みを、欲望を。人間界ではない場所にいるだろう神に冀い、そして。
ナッシュの全ての記憶のなかに、ドン・サウザンドは一瞬たりとも存在しなかった。
ナッシュは目を細めて笑う。口があったならばその端は見事につり上がっていただろう。胸の中に押し寄せる幸福感。じんわりと広がる熱は喜び。
「この記憶は……嘘じゃない。紛れも無い、俺の、俺自身の」
「そうだ、ナッシュ。我の改竄は微塵も加えておらぬ。正真正銘のお前自身の記憶だ」
誰にも操られず、惑わされず、自分自身の選んだ道を間違いなく歩んでいた。その確信が、ナッシュの中の迷いや不安を取り除いた。歓喜に瞼を閉じる。ナッシュの身体の内側で蠢いていた混沌やバリアン世界の魂たちが沁みるように馴染む。強大な神の力も、原初の混沌も。蘇った記憶と一緒に全てがナッシュのものとなる。
目を開けるとそこにはもうドン・サウザンドはいなかった。彼の力はもう己の内に全て取り込まれた。赤い光がナッシュの目の前に道を形作る。白い階段だった。それが続いているのは、蓮の花咲く赤い世界。ナッシュが守りたいと願った世界。
まっすぐに向きあえば、何かが背中を押してくれた。優しく大きな掌。旅路へ向かう我が子を励ますような力強い父の暖かさ。するりと足が動く。一歩を踏み出す。そうすればもう迷うことなど一つもない。
ナッシュはもう振り返らない。迷わず自分の道を己の足で己の意志で、踏みしめて歩くだけだ。今までも、そしてこれからも。
それがどんなに素晴らしく尊いものであるか!
ドンさんとナッシュの関係は父子なんじゃないかなーとずっと考えていて思いました。シャークさんが散々いろんなものに操られてきたからこそ自分自身の選んだ道に尊さを感じて決して逃げない、そう見越して人間界へ旅をさせた。ナッシュを次の神とするために。な感じの解釈を今はしています。
Text by hitotonoya.2014