揺れる光ない海の底

 

 瞼を開けると目の前に広がっていたのは赤で埋め尽くされた世界だった。そろそろ慣れてきた光景に、しかし俺は違和感を覚える。確認するように自分の手のひらを持ち上げてみれば、それは人間の肌色をしていた。またか、と自嘲するように唇の端を持ち上げる。この動作も本来この世界では、この姿では、あってならないことだ。

「ナッシュ」

 心配そうな声に振り向けばそこにはドルベが立っていた。

「すまない」

 思わず口をついて出た言葉に、ドルベはなだめるように目を細める。

「何を謝ることがある」

 ゆっくりと歩み寄ってきた彼に肩を抱かれる。庇うような、励ましてくれるような優しい手だった。だがそこにヒトの体温は感じられない。

 ドルベに導かれてバリアン世界に来てからどれだけの時間が経っただろう。この世界の空は常に赤く薄暗く、昼と夜の区別もつかない。時間の感覚が狂っていく。だから未だにこの世界で、ヒトとして生きていた頃の姿をとってしまうことが不慣れだからからなのか、それとも未練が残っているからなのかも分からない。前者ならば時間の経過でなんとかなるものかもしれないというのに。

「ナッシュ」

 ドルベの指先がするりと首元にふれる。Vネックのシャツから覗く鎖骨。その上のあたりに触れてドルベは目を見開いている。

「ここにしていたチョーカーはどうしたんだ?」

 彼の言うとおり、俺は先ほどまでこの場所には銀のチョーカーを身につけていた。ロケットになっているペンダントヘッドの中には父と母、妹と写った写真が入っているそれを、俺はいつも縋るように身につけていた。ひとりぼっちの寂しさを紛らわすように。……それが本当の家族ではなかったことも、自分自身でさえなかったことも知らずに。

「さっき捨ててきた」

 乾いた声に感情を滲ませず、笑みさえ作ってドルベの問いに答える。赤い海を臨む岬で、メラグの目の前で引きちぎって遠くへ投げ捨てた。

「あれは俺のじゃなかったからな。俺にはこれがあればいい」

 代わりのように、胸の真ん中で揺れる大ぶりのペンダントを握る。金色の鎖で繋がれた、赤い宝石の埋め込まれた紋章のペンダント。ドルベが大切に持っていてくれたそれは前世から俺が身につけていたものだ。

「大切なものだったのではないか? こちらにも持ってきてしまうくらいに、君の一部となっていたのだろう?」

「いいんだよ」

 彼は彼なりに心配してくれているのだろうが、バリアンとして生きる決意をした今となっては人間の頃を思い出させるものは極力排除したかったのだ。本当はこの姿になるのもいやなくらいだ。俺の本当の姿はあの紫色の身体で、顔には鼻も口もないバリアンなのだから。

「それに、持ってくるもなにも、身辺整理する暇なんてなかったじゃないか。俺もメラグも、着の身着のまま」

 言いかけて、俺は息を飲んでいた。今までぼんやりと抱いていた疑問、もしくは違和感の正体がそこでようやくはっきりと形を持ったのだ。あのとき、ドルベに連れられた海底遺跡で俺は今と同じ服を着ていて、けれど璃緒は入院着のままで。

「……ドルベ」

 顔を上げればドルベは苦々しそうに目をそらしていた。言わなくていいことを言ってしまったと後悔していそうな表情だった。

 ふつうの人間と同じように生きていて病院で何度も検査を受けた身体が当たり前のようにバリアルフォーゼをすることができたことを、不思議に思わないはずがなかった。俺はこの世界に来たとき前世の記憶の中の鎧の姿だった。璃緒はいつの間にか私服に着替えていた。俺もその後人間の姿になるときは現代の私服を纏っていた。無意識のうちに俺の手は確かめるように自分の身体を抱いていた。当たり前だが触ることができる。慣れ親しんだ体のつくりをしている。それでも何故か……恐ろしいほど身体が軽い気がしていた。それはきっとこの世界こそが本来俺の在るべき場所だったからだと思っていた。

「遺跡に行きたい。連れて行ってくれないか。あの海底の遺跡に」

 眉間に皺を寄せて、ドルベは「君が望むならば」と苦々しくつぶやいた。

 

 

 No.73とNo.94、そしてナッシュとメラグの記憶が眠っていた海底遺跡には相変わらず海の底とは思えないような不思議な光が溢れ、やわらかな空気が流れていた。迷宮の中央部の祭壇のような場所に靴の音を鳴らして降り立つ。隣にいたドルベは眼鏡をかけた少年の姿になっている。

「ナッシュ、振り返るな」

 肩を抱かれながら呼び止められる。低い声に悲痛な感情が滲んでいる。その言葉は、俺の確かめたかったことが、きっと正しかったのだと教えてくれている。

「なぜ」

「……私が……君に見せたくないだけだ」

 ドルベもまた、俺がそのことに気づいていることを分かっているのだろう。ドルベは正面に回るとぎゅうと引き留めるように抱きしめてきた。背中に回された手に籠められている力は、強い。

「分かってる」

 ドルベの背に手を回す。そして優しく撫でる。そんなことはしなくてもいいのだというように。

「だから……メラグは連れてこなかったんだ」

 ゆっくりとドルベの腕をほどいていく。真正面から不安げなドルベの瞳を見、大丈夫だ、と首を小さく縦に振る。それは自分自身への奮起の意味も籠められていた。

 そうしてゆっくりと振り返る。そこには二人の人間の身体が祭壇の床に横たわっている。ピンク色の入院着のままの神代璃緒。そしてもうひとり、彼女から少し離れた場所に同じく仰向けに倒れているのは、俺だった。否、同じ服を着て、同じ姿をしているけれど、それは俺じゃなかった。

 神代凌牙。人間の少年の肉体。

「………っ」

 分かっていたはずなのに、すうと身体から力が抜けていく。膝を降りそうになった身体を支えてくれたのは、ドルベだった。

「ナッシュ」

「……すまない」

 ドルベの手をとり、なんとか足に力を籠めて立ち上がる。不思議な感覚だった。今の俺はやっぱり肉体というものを持っていないはずなのに、以前と同じような感覚が踏みしめた足の裏から伝わるし、動かし方にも、目の前で横たわってい身体を使っていたときと何ら変わりない。今の俺はあの身体から抜け出た魂のようなもののはずなのに。

 ゆっくりと歩み寄る。足下に転がっている身体はあの日璃緒の病室からドルベに連れてこられたときと同じ格好をしている。気に入りのジャケット。履き慣れたズボンに靴。バリアンの海に投げ捨てた、家族写真の入ったロケットペンダントも胸に輝いているままだ。今の俺と違うところなんて、首にかけているものがそのチョーカーか、バリアンの紋章のペンダントかの違い、たったそれだけ。

 彼の傍らに膝をつき、薄く開いた唇に手をかざす。息をしていない。胸も動いていない。心臓は鼓動しておらず、脈を打つことはない身体。血の気の引いた肌色、開くことのない瞳。それは紛れもなく死んでいる肉体だった。

「不思議だとは、思ってたんだ」

 言葉が勝手に口をついて出ていた。

「バリアンと人間の身体がおなじようにできてるわけねぇって……あんなに何度も病院で検査を受けてきた身体を持っている俺たちが、バリアンのわけがないって、なのになんでこんな簡単にバリアンの姿になれちまうんだって、でもそんなのあたり前だったんだよな、バリアンは元からエネルギー体で、身体は持たない。今の俺たちの姿はかりそめの姿で……俺とメラグは死んだ神代凌牙と璃緒の身体を使って、人間のフリしてたんだって、分かってたはずなのに」

 ぺらぺらとしゃべり出した自分自身を滑稽に思う。まだがくがくと手足が震えている。自分自身だと思っていたものの死体は、俺に逃れられない現実をとどめのように突きつけた。俺自身が望んでこの場に死体を確かめにきたはずなのに、怖くて怖くて仕方なくて、俺はそばに寄ってきたドルベに必死にしがみついていた。涙がぼろぼろとこぼれていく。こんなに俺は涙もろくなかったはずなのに、最近ずっと泣いてばかりだ。

「……黙っていてすまなかった。君たちの魂だけバリアン世界へ導いたことを。自分の死体を目の当たりにすることは、つらいだろうから」

「いいんだ、これは俺たちじゃない、バリアン世界は生身の人間が長時間いて耐えられる場所じゃない。だからきっと、このふたりにとってはこっちのほうがずっと良かったんだ」

 音もなく眠る双子を見下ろす。時が止まったように死体はきれいなままだった。

「封印のナンバーズの遺跡は不思議な空間だ。時の流れが止まっているようだ。……ここに置いておく限りは、彼らの遺体も損傷はしないだろう」

 誰にも知られず、ただ海の底で朽ちていくというわけではないらしいことに安堵を抱いたのは何故だろうか。

 投げ捨てたはずのチョーカーに俺が手を触れても息を止めた凌牙が拒むはずはなかった。そこには俺がしていたものと同じように家族の写真が収まっている。神代凌牙の、本物の家族。全員が死んでも決して断ち切れることのない血の絆。勝手に投げ捨ててしまった身ながら、凌牙の元にこの写真が残って良かったとさえ思ってしまう。

「ドルベ、全部終わったら、またここに来たい。そうしたら、どうか、こいつらを、親と同じ墓に入れてやりたい」

「……わかった。そうしよう」

 今はそんなことをしている暇ではないと分かっている。だから今はこの場所で、きれいなまま眠らせておきたかった。これは俺の完全なエゴだった。本当に凌牙と璃緒のことを考えていたわけではなかったかもしれない。だって全部終わったら、こちらの世界はきっと無くなっているだろうから。

 写真の中の少年と少女を見る。無邪気に笑う双子の顔。身に纏っていた服やアクセサリーは本当に彼らの趣味にあうものだったろうか。勝手に身体を使って、勝手に着飾らせて、勝手にたくさんの傷を作って、勝手に生きて。

 投げ出された右手の薬指に、きらりと銀のリングが輝いている。璃緒が遊園地で買ってきたペアリング。記憶を辿る。あれは凌牙と璃緒が死んだ事故の後だった。重ねた俺の右手の薬指にも同じ輪がはめられている。

 そっと指輪をはずす。かたくなった指からそれを抜ききって眺めると、俺の薬指の指輪が消えた。入れ替えるようにそれをはめる。

「人間界からバリアン世界に、物質を持ち帰ることはできるのか?」

 ドルベに訪ねれば、可能だと頷いてくれた。立ち上がって今度は入院着のまま横たわる璃緒の元へ行く。右手の小指の指輪を外して、俺は握りしめた手のひらごとそれをポケットの中に入れた。

 

 

 海底遺跡を後にした俺は真っ先にメラグの部屋に行った。メラグはそこで横になって眠っていた。バリアンの姿ではなく、人間の姿で。彼女もまた俺と同じように気がゆるむと人間の姿をとってしまう癖が抜けないらしい。でも今はそれで良かったと思う。

「メラグ……」

 眠る妹の横顔は海底遺跡で死んでいた神代璃緒のものにうりふたつだった。バリアンには呼吸の必要もないはずなのに、手をかざして息を確かめてしまう。あたたかな寝息がこぼれ、胸が呼吸にあわせて上下している。彼女は生きている。死体ではない。当然だった。そもそもこの姿は実体ですらない。

 俺たちの真実にメラグは気づいているだろうか。察しのいい彼女のことだから、もうとっくに気づいて、俺に黙っているだけかもしれない。でも俺には彼女に真実を打ち明けて、自分だった死体を見せつけることなんてできない。すべてが終わるまでは黙っていよう。そう思いながらそっと彼女のあたたかな手をとる。右手の小指にはめられた銀の指輪。指先で触れるとそれは幻のように霧散していった。

 持ち帰ってきた指輪をポケットから取り出して、メラグの小指にはめなおす。重ねた手のひら。俺の薬指とメラグの小指に光るペアリング。無言でそれをしばらく見つめて、眠るように瞼を閉じる。

 次に瞼を開いたときには、俺はきっと人間の姿をしていないことを願いながら。

 

2014.01.02

というマイ設定を説明しただけになってしまった話。

Text by hitotonoya.2014
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