知らない

 バリアンからの刺客も、兄妹の身体を犯していた毒も消えたというのに地に膝をついた凌牙に、彼の身に何が降りかかったのか理解出来た者はこの場にいなかっただろう。Wも当然そのうちのひとりだった。つい先程までWに対して軽口を叩きながら唇の端を持ち上げて、汚れまみれになりながらも笑顔を見せていたはずの凌牙。璃緒の様態は遊馬に入った連絡から考えて安泰なはずだった。だというのに彼は何故。

「凌牙、おい凌牙?」

 後ろから覗き込もうとしても、凌牙の肩まで伸びた髪が邪魔でその表情は見えない。

「シャーク?」

 後ろの方では遊馬とVも何が起こったか分からず目を瞬かせている。

「凌牙」

 回りこんで肩を揺する。俯いた凌牙の顔は上がらない。Wは首を傾げて彼の顔を見て、息を呑んだ。目を見開いたまま、唇を噛み締めて何かを堪えている凌牙の表情は、かつて彼を絶望の底へと突き落としたはずのWでさえ見たことがない、底の底へと叩き落されたような、凄まじいものであったのだ。

「ッ……!」

 ぞくり、と背筋に震えが奔る。今まで何人もの決闘者を、ファンサービスと称して絶望に落としてきたはずだった。そんなWが恐怖さえ抱いてしまうような凌牙の表情。その瞳はWを全く映していない。影になって暗い青色は深海のように冷たく、闇を宿している。掴んだ凌牙の肩が震えているのか、それともWの指が震えているのかも分からない。ただ息だけはしている状態の凌牙の背中の向こうで、草を踏みしめる音が聞こえてWは顔を上げた。

「兄様」

 Vと遊馬がこちらに近づいてきていた。凌牙を心配してのことだろう。WはVから聞いていた遊馬の様子を思い出す。アストラルを失った悲しみを、未だ色濃く引きずっている遊馬。幼い彼のこころはそれだけで精一杯のはずだ。今だって、その瞳の光はかつてWDCでWの見たものと比べてずっと頼りなさげで、今にも涙を零しそうなのだ。Wにさえ分かるほどに。

 Vを見、Wは首を横に一度だけ振り、目配せする。今の凌牙に、遊馬を関わらせてはいけない。そう思ったからこその判断。Vも同じことを考えたのだろう。すぐに頷くと、それ以上足を進めるのを止めた。遊馬が足を踏み出そうとするのを遮るようにWは口を開く。

「クラゲ野郎に盛られた毒の痺れがまだ残ってるみてぇだ。……全く情けねぇ野郎だぜ。おい凌牙、へばってないでさっさと立ちやがれ」

「シャーク、大丈夫か?」

 それでも心配を向ける遊馬にWは小さく舌打ちをする。そして、力の抜けきった凌牙の身体を抱き上げて見せた。

「ったく、こんなところで寝てるんじゃねぇよ。念のため病院連れてったほうがいいか?」

「そのほうがいいと思います、兄様」

 Vが同意する。凌牙の顔は遊馬には見えないよう、自分の胸に押し付けて隠す。普段なら全力で抵抗してくるだろうこの格好にも、凌牙は無反応だった。おそらくその耳には誰の声をも届いていないのだろう。いよいよ彼の状態の異常さを感じ取って、Wは眉を顰める。先ほどまでの笑顔が嘘のようだ。

「じゃあ俺たちも病院に……!」

「てめぇらがいたら邪魔なだけだ。お前たちにこうして凌牙を運べるか?」

 ぶっきらぼうにわざと拒絶するように低い声を出せば遊馬は黙りこむ。

「遊馬、今はシャークも璃緒さんも安静にしてたほうがいい。話はまた今度にして、僕たちは僕たちで、バリアンの調査を進めよう」

「……ああ、そうだな」

 いつもの調子ならば無理にでも凌牙に同行することを選んだだろう遊馬もまた、どこか遠くの空を見ながら心ここにあらずといった様子だった。遊馬の状態はWたち兄弟が想像していた以上に重症だと分かる。こんな時こそきっと凌牙が彼を元気づけてやるべきなのだろう。遊馬との絆は、WはもちろんVよりもずっと凌牙のほうが深いはずだった。なのに凌牙は何故かそれをしていない。トロンが記憶の改竄という手段をとらなければならないほどだった彼らの絆はこんな大事な場面でほつれてしまっているというのか。

 それとも。

 Vが遊馬の背中を推し、廃墟の出口へと向かっていくことを確認してWは腕の中の少年を見る。

 凌牙にそれができないほど、トロンや自分たちのように、何者かの邪魔が入っているのだろうか。

「凌牙」

 呼んだ名前にぴくりとも反応しない凌牙が本当に毒が残っているだけならば良いのにと思いながら、歩く。病院には連れていかなくとも、どこか清潔な部屋で休ませてやるべきだろう。振り返って、凌牙が膝を付く前にかき分けていた蔦の絡まった噴水を見る。そこには金色の、変わった意匠の紋章が刻まれていた。あれを見てからだ。凌牙がおかしくなったのは。その前にバリアンが言っていた言葉はWにはよく聞き取れなかった。かろうじてきこえたのは、『一家全員死んだはずだ』という言葉。一体どこの誰が死んだというのか。凌牙にここまでの衝撃を与えるような存在が、璃緒と遊馬の他にいるのだろうか。……Wにはわからない。わからないことだらけだ。

 ぎゅっと身体を抱く腕に力を込める。

「凌牙」

 優しく名を呼びながら抱くなんて、いつもの凌牙ならば嫌がるはずだった。Wを引き剥がそうと腕を振り回し足をばたつかせ、大きな声で憎まれ口をたたくはずだ。先ほどまでのデュエルもそうだった。毒が全身に回って苦しいくせに凌牙は素直にWのいうことを聞かなかった。倒れても意地を張って、Wの前で強がって見せて、起き上がった。神代凌牙という男はそういう存在なのだと知っていたからこそ、Wはあえてそういう方法を使った。

 なのにどうして、あれから時間なんて全く経っていない今、凌牙はこうして大人しく抱かれているのだろう。黙りこんでいるのだろう。デュエルに勝った直後の笑顔がずっとずっと遠い。

 デュエルに勝ったはずだろう。身体を蝕む毒は綺麗さっぱり消えたはずだろう。大切な妹をお前は救えたはずだろう。なのにどうしてお前は笑っていない。お前はお前らしく振舞わない。神代凌牙はどこへ行っちまったんだ。

 こんなに密着しているはずなのに、Wの知る神代凌牙に手を伸ばしても届かない、空に溶けて消えてしまいそうな錯覚さえ覚える。

「凌牙」

 名前を呼ぶ。呼び続ける。それしか今自分ができることが思い浮かばず、Wは無力感にギリと歯を軋らせた。頬の傷が疼く。

 今まで己がしてきたことが、全て凌牙に許されるとは思っていない。許してもらおうとも思わない。だけれども、確かに笑顔で軽口を叩き合いながら、勝利を喜んだあのときは本当に嬉しかった。これからもずっとこういう関係を築いていけるのではないかと夢見るほどだった。

 なのに何故だろう。もう二度と、彼の笑顔を見られないような気がしてしまうのは。Wは否定するように首を横に降った。凌牙を抱く手で、その存在の重さをしっかりと味わいながら。

 

2013.08.12

無自覚にシャークさんの地雷を踏んでいくIVさんみたいなイメージです。ほんとあの場をどうやってスルーして116話に行ったのか気になります。

Text by hitotonoya.2013
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