太陽が沈んだ

「本当にすみません、わざわざ来て頂いたのにアイツったら先生にまで迷惑かけて……」

 長髪をポニーテールに纏めた頭を深深と下げるのは、右京の教え子の姉だ。両親のいない彼の保護者である彼女とは、何度か顔を会わせたことがある。

「いえいえ。……無理矢理引きずり出すわけにも行きませんし、あのくらいの歳の子どもは本当に繊細ですから」

 黒縁眼鏡がずれたのを直しながら、右京は頭を下げてばかりの彼女をなだめる。登校拒否をしてしまう子どもというのは、一クラスにひとりはいるものだ。右京も今まで受け持ってきたクラスの中に、何人かそういう生徒がいた。理由は生徒によって様々だが、つい最近まで上級生にもひとり不登校の生徒がいた。

「……また何かありましたら、連絡します」

「はい……本当にご迷惑おかけします」

 右京は一礼して、玄関を抜ける。今時珍しい平屋の併設された大きな一軒家は、九十九遊馬の家だった。右京は真っ赤に染まった道を歩きながら、外から遊馬のいるらしい、屋根裏部屋を見る。閑静な住宅街は、子どもの遊ぶ声さえ聞こえず、静かだった。

 太陽が沈んだ。

 日が落ちるのが早くなったなと右京は思う。モノレールの駅にたどり着く前に、周囲はすっかり暗くなっていた。

 繁華街に入れば眠らない街、ハートランドシティは鮮やかなネオンサインや施設の明かりに照らされて、先ほどまでとはうってかわって騒がしくなる。どうせならついでに見回りもしてしまおうか。ここ最近怪事件が多発していると連日報道されている。好奇心で首をつっこんでしまう可能性のある生徒に何人か思い当たりがあった。

 ……その筆頭が、九十九遊馬。学業の成績こそ芳しくないものの、周囲をひきつける魅力と元気、諦めない気持ちを持った、太陽のような子どもだったのに。

 彼がまさか、家に引きこもって、学校に来なくなってしまうなんて思わなかった。

 以前から何度か病気ではなく学校を休むことはあったけれど、彼が何か大きな事件と関わって、何か特別な事情があるだろうことは、今までの遊馬とその周囲を見ていれば嫌でも分かる。だけれども、約一週間。遊馬は学校を休んでいる。体調を崩したわけではないらしい。ただ部屋から出てこないのだと、彼の家族は右京に説明、相談をしてくれた。

 彼と仲のいい生徒たちが連日彼を元気づける努力をしているようだが、効果が出ないらしい。遊馬がいない教室は、それだけで寂しく感じてしまうのは、生徒たちだけではない。右京もまた同じなのだ。

 小さく息を吐いて、右京は頭を片手で抱えた。普段が明るい遊馬だからこそ、落ち込んでしまったり、何か悩みを抱えてしまったりしたときの対処は難しいだろう。今までだって右京が遊馬に勇気づけられていたことは何度もあった。彼の影響で不登校から復帰することが出来た生徒だっていたのに。

 どん、と身体に軽い衝撃を感じて右京は我にかえる。道の真ん中で考え込んでしまったらしい。通りがかる誰かと身体がぶつかったのだろう。

「……悪ぃ」

 すれ違いざま、掠れた低い声が下の方から聞こえて、右京は振り向く。ふらふらと歩く後ろ姿に、右京は見覚えがあった。

「なっ……」

 反射的に足が動いて駆けていた。肩を掴む。小さなからだはそれだけで動きを止めた。

「凌牙」

 名前を呼ぶと同時にぐるりと振り返った少年の瞳は、夜の海の色をしていた。

 神代凌牙。つい先日まで不登校だった……そして今も、遊馬と時をほぼ同じくして学校に来なくなっている、二年生だ。

「……なんだ、てめえか」

 凌牙は右京を見ると挑発的に口元を釣り上げてみせた。学園一の不良として生徒どころか教師陣にまで恐れられている彼だが、その笑みが無理をして作られたものだと右京には一瞬で分かった。

「どうしたんだ、こんなところで……」

「璃緒の……病院、面会時間過ぎたから、追い出された」

 火傷による一年間の昏睡状態から目覚め、先日ハートランド学園に転入をしてきた彼の双子の妹だ。彼女が再び原因不明の昏睡状態に陥ったということは職員会議でも話題になった。凌牙がつきっきりで病院に付き添っているということは知っている。

「そうだったね。でも、君も具合が悪いんじゃないのか。顔が真っ青だぞ」

「うるせぇな、夜だからそう見えるだけだろ。俺は……大丈夫だ」

 ぐらりと凌牙の身体が傾いた。右京はあわてて支える。抵抗する気力もないようで、凌牙は右京の腕のなかでぐったりとしていた。瞼が今にも閉じてしまいそうなのを、懸命に開こうとしている。

「凌牙……?」

 顔をのぞき込めば目元に色濃い隈が浮かんでいる。睡眠時間が足りないのだろう。元気盛りの中学生の顔にこんな隈が浮かんでいていいわけがない。

「璃緒が心配なのは分かるが、君まで体調を崩してしまったらどうしようもないだろう。家まで送るから、今日はぐっすり寝て休むんだ」

「嫌だ……っ!」

 とたんに凌牙の目が見開かれ、暴れ出す。右京がなんとか押さえ込める程度の力でしかなかったのは幸いだったろうか。

「嫌だ……寝たくない、眠りたくない……っ、怖い、寝たら、また、あの夢を」

「夢?」

「嫌、だ……」

 抵抗むなしく凌牙の瞼は閉じられて、右京の腕にかかる体重が増す。彼がどれだけ寝ていないのかは正確に分からないが、身体が耐えられなくなったのだろう。気絶するように眠ってしまった凌牙の身体を抱えて、右京はとりあえずタクシーを呼んだ。

 

 

 学校のデータベースにアクセスする。教師の権限があれば閲覧できるフォルダの中に、生徒の出席情報は格納されていた。

 遊馬が学校に来なくなってしまった少し前に、彼と小鳥が無断で学校に来なかった日が何日かあった。それと同じ日に、上級生である神代凌牙と璃緒も学校を休んでいる。休日を挟んで、璃緒が入院。同時に凌牙も学校に来なくなる。そうしてその数日後、遊馬までも学校に来なくなった。

 何か関係があるに違いないと右京はディスプレイを見ながら思う。遊馬のことは小鳥に尋ねてみたが、何か肝心なところをはぐらかされてしまっているというのが現実だ。

「っはッ……!」

 鋭い呼吸の音に、右京は振り返る。シングルサイズのベッドの上で、掛け布団をはねのけるように、少年が飛び起きていた。怯えきったように震えて、眼球が飛び出してしまうのではないかと思うほど目を見開いて、汗だくの顔は蒼白だった。明らかに尋常ではない。

「俺は……ッ、俺は……」

 ひゅうひゅうと不自然な呼吸を繰り返す間から掠れた声を出す凌牙に右京は椅子から立ち上がる。

「凌牙」

「はっ……、俺……は、神代、凌牙、だよな?」

 呼ばれた自分の名を疑う彼の様子に右京は眉を顰めるが、しっかりと頷いた。

「そうだよ。君は神代凌牙だ。私は北野右京。分かるかい?」

 そっと手のひらを握りしめる。指先は海の底のように、冷たく凍えていた。凌牙はたどたどしく頷く。

「病院の帰りに私と会ったのを覚えているかい? あの後君が気絶してしまったから……家まで送ったんだけど、誰もいないようだったから、私の家に連れてきてしまったんだ。無断ですまなかった」

 凌牙は呼吸を落ち着けながらきょろきょろと周囲を見回して、自分の居る場所を確認する。小さなランプしかつけていなかった部屋の中で、凌牙は右京の手を払って自分の身体を確認するように抱きしめた。

「……本当に、悪い夢を見ていたようだね」

 気を失う前の凌牙の言葉を思い出し、右京は凌牙の目を見る。夜の海の色の瞳は落ち着きこそ取り戻してきたが、曇りが晴れることはない。

「そんなの、てめぇには関係ねぇ……」

 強がりで否定しない凌牙はそれだけ追いつめられているのだろう。一年ぶりに取り戻した妹を再び失ったショックが彼には大きすぎたのだと学校の誰もが判断していた。だがこの凌牙の反応を見ていると、それだけではない、別の理由があるように右京には思えた。

「イヤな夢を見たくない、という気持ちは分かるよ。でも、眠らないと身体が持たない。まだ君は睡眠が不十分だ。明日学校に来いとは言わない。璃緒のことも心配だろう。だけど、明日病院が開く時間までは……せめて眠ってくれないか」

 凌牙は布団をしわくちゃになるまで強く握りしめた。かたく口を結んで、何かに耐えている。

「何があったのかは……話してくれないよね」

「………」

「遊馬もあれきり学校に来てない」

 びくりと凌牙の肩が跳ね、顔を上げた。遊馬は彼にとって大きな存在だということを右京は知っていた。かつて荒れていた凌牙をその懸命さで救い、照らしたのは他でもない遊馬なのだ。凌牙が以前の不登校から復帰するときも、尽力してくれたのは遊馬だということを彼も良く知っている。

「……知ってる」

 名前に動揺を見せたが、凌牙はもちろん遊馬の現状を知っていたようだ。小鳥から聞いたのだと凌牙は付け足した。

「君がいてくれたら、遊馬も」

「俺はっ」

 凌牙の手が右京のシャツの襟元に延びた。殴りかからんばかりの勢いで捕まれる。右京は驚いたが、声をあらげたり、彼の腕を払うことはしなかった。凌牙の身体が、打ちひしがれるように震えているのに気づけたからだ。

「俺には……あいつを励ます資格なんて、ねぇんだ……俺じゃだめなんだ。俺にはできねぇんだ……」

 瞳の表面を涙が覆っていく。溢れたそれが目尻に集まって、一滴こぼれ落ちたことに凌牙は気づいていないだろうか。

「……すまない」

 落ち着いた声で右京がいうと、凌牙はゆっくりと手を離していく。

「生徒に頼ってばかりの、だめな教師だよ、私は」

 自嘲して、右京は立ち上がった。

「夢をみないほどぐっすり眠れるように、いい飲み物を作ってくるよ。薬に頼らなくても睡眠導入の作用がある食べ物はいくつかあるらしい。調べてみたんだ。たとえばレタスとかタマネギとか。牛乳と混ぜてミキサーにかけようか」

「……牛乳だけでいい」

「……そうか。蜂蜜を混ぜると効果が高いらしい。蜂蜜は大丈夫かい?」

 こくりと頷いたのを確認して、右京はキッチンへと向かった。小さな鍋で牛乳を暖めて、蜂蜜を溶かす。マグカップに入れて寝室に戻ると、凌牙はベッドの上で拳を握りしめたままだった。

 マグカップを手渡す。凌牙が一口飲んで、息を吐くのを確認する。

「昔の、イヤな思い出でも夢に出てくるのかい」

「アレは思い出なんかじゃねぇ!」

 顔を上げて凌牙は怒鳴った。マグカップの中身を取り落とすことはなかったが、凄まじい剣幕だった。右京の驚いた顔を見て、凌牙も我に返ったのだろう。目を逸らして、カップの中身を一気に煽る。

「ただの夢だ。わけわかんねぇ、ゲームだかマンガだかの世界みたいな夢……なのに、寝たら毎回、夢に見る。非現実的なのに、妙に現実的で、その世界には俺じゃない俺がいる。俺の知らないことが、まるで当たり前に思い出すみたいに夢になって、目が覚めたら、俺が夢の中の俺になってるんじゃないかって。そんなことありえねぇのに、俺は俺だ、俺なんだ……俺は……」

 そう凌牙は右京に吐露するというより自分に言い聞かせていた。再び疲れが襲ってきたのか、瞼が落ちかけ、声も曖昧になっていく。凌牙の手から空になったマグカップを取り上げて、ベッドに上半身を横たえる。

「大丈夫だ、凌牙。そんな夢、今日は見ない。朝、私が起こしてあげるから、ぐっすりお休み。私が起こすのは君だから。次の朝このベッドの上で目を覚ますのは、凌牙だ」

 囁けば、凌牙の呼吸が少し落ち着いた気がした。強がっていても睡魔に勝てない子どもの身体は瞼を完全に閉じてしまえばすぐに寝息が聞こえ出す。それでも、彼の表情は穏やかとはほど遠い。太陽光の届かない海の底で、もがきながら呼吸をしているようだった。

 太陽がいないと、彼はまだ息が出来ないのだろうか。

 そんなことを考えながら、せめて凌牙が悪夢を見ないよう、今だけでも彼の苦しみを取り除ける太陽に、右京はなりたかった。出来ることなら、彼の太陽をも、助けたかった。

 

2013.07.14

オフラインで出してた遊凌本シリーズ(右京先生がとてもたくさん出てくる)の再録作業をしてたんですが、そのシリーズの流れで右京先生話。シャークさんは遺跡から帰ってきた後、刺激されたように毎晩前世の夢を見る(=記憶を思い出してしまっている)っていう設定。それくらいじゃなきゃいきなり弱気になってるのが謎だし…俺は俺だし…。

Text by hitotonoya.2013
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