菫青色のシャルフリヒター

 

『遊馬』

「わっ、あ、アストラル! いきなり話しかけてくんなって。驚くだろ?」

 ひそひそと小さな声で遊馬が話しかけるのはここが彼の通う学校だからだ。アストラルとて自分が遊馬をはじめ一部の人間にしか見えず声も聞こえないこと、そのため自分と会話する遊馬がまるで独り言を虚空に向かい喋っているように見えてしまうことは知っている。遊馬の学園生活の邪魔をするつもりはアストラルにはない。だから日中のほとんどを皇の鍵の中で過ごしている。

『……少し、気になることがあってキミに相談をしたいのだ』

「気になること……?」

「遊馬くん!」

 アストラルの声を遮るように響いた声は、遊馬の名を呼ぶもの。間髪入れずに遊馬の背中に飛びつくように現れたのは、最近転校してきたばかりの遊馬のクラスメイト、真月零だ。

「真月! なんだよいきなり……」

「すみません、その……ここらへんの一番近くのトイレって、どこだかわかりますか?」

 遊馬と真月の目が会う。こくり、と真月が頷いた。

「あ、ああ、そういえばお前、転校してきたばっかりで学校のことわかんないことまだ多いもんな、よし、案内してやるぜ! ちょうど俺もトイレ行きたかったとこなんだ」

 言いながら遊馬は真月には見えないアストラルを振り返る。黙ってアストラルは皇の鍵の中に入った。トイレという個室の中で行われる行為を人間は見られると死んでしまうのだという。この世界に降り立ったばかりの頃、遊馬が顔を真っ赤にしてアストラルに教えたことだ。彼がトイレに入っている間は絶対にアストラルは遊馬の前に現れない。

 そうして皇の鍵を確認するように遊馬が握りしめる。真月と遊馬はふたりでトイレに向かったのだろう。

 鍵の中の巨大な船の中でアストラルは考える。バリアンのこと、ブラックミストのこと。自分の使命のこと。考えなければならないことや、どうにかして解決策を見つけなければならないことは多すぎて、時間はいくらあっても足りないはずだ。なのにこの時間が、最近、恐ろしく長く感じる。……遊馬がアストラルに、出てくるな、鍵の中にいるようにと言ってくる機会が増えた。遊馬が自分を避けているようにさえ思えるのだ。

 カオスナンバーズを操るバリアンからの刺客に、遊馬もアストラルも恐怖を覚えていた。守られる立場になってしまうアストラルは、バリアンが遊馬の日常生活の場にまで進出してきたことから、自分から積極的に鍵の外に出ることは彼の負担も考えて避けていた。だが最近はほとんど遊馬と会話をできていない気がする。友人と彼が過ごす時間を邪魔するつもりはないが、話しかけても、遊馬がこちらをまっすぐに見てくれないことが増えたように感じるのだ。

 砂ばかりの空間で、動かすこともできない船の中にひとり漂うアストラル。今まではこの場所にいても、遊馬がすぐそばにいると感じられた。あたたかい光が自分のそばで輝いていると安心できた。だが今は、この空間はアストラルにとって至極つめたく、寒い。凍り付いてしまいそうだ。

 この感覚は一体なんなのだろうか。バリアンやナンバーズのことを考える間間に、その疑問がぽつぽつと降り落ちては集中の邪魔をする。

 それにしても遊馬のトイレがいつもより随分と長い。遊馬はトイレが終わったとき、アストラルがずっと出てこれなくならないように皇の鍵に触れて合図を送ってくれる。長いときと短いときのおおまか二パターン、遊馬が小さな個室で過ごす時間はあるのだが、長いときの倍の時間、とっくに過ぎているように思えた。

 まさかアストラル以外の何者かにトイレの最中を見られて、遊馬の身に危険が迫っているのではないだろうか。バリアンの襲撃があったのではないだろうか。合図も送れぬ状況にまで追いつめられているのではないだろうか。

 思い描いた不安がアストラルを突き動かす。空を見上げ、鍵の外へと思いを馳せる。……少しだけ。ほんの少しだけ。鍵の外へ出るのは遊馬のため。遊馬に危険が迫っていないか確かめるため。

 言い訳するようにアストラルは鍵の外へ出る。遊馬に気づかれぬように、そっと。遠くから眺めるように。

 アストラルが出たのは学校のトイレの個室のドアの前だった。鍵のかかった個室はひとつ。外には誰もいない。遊馬は真月とともにトイレに向かったのではなかったのか。

「はぁっ……あっ……真、月ぅ」

 荒い呼吸が聞こえた。体力を消耗しているような、肩でする呼吸の音だ。本当に何者かに遊馬は襲われていたのか。

 ドアの隙間からのぞき込む。閉められた扉に背を向けて、遊馬はいた。そのからだの下、便座の上に、真月がいる。

「んっ……遊馬……」

 濡れた水音はトイレで行われる排泄行為のものではない。はだけられた制服、絡み合うふたりの少年の身体。遊馬はアストラルに気づいていない。彼の赤い瞳は彼を慕う真月の、菫色の瞳だけを見つめている。唇が唇に重なる。見えない皮膚の下で舌が動いている。口からこぼれていくさらさらとした唾液。脚を開いた真月が誘うように遊馬に微笑みかける。普段と変わらぬように遊馬に触れ、抱きつき、愛情を示す。それに遊馬が応える。……そう、それはきっと、普段アストラルの目の前で包み隠さず繰り広げられているものと全くおなじはずなのに。

 遊馬は肩で息をしながら真月の脚を抱えあげ、さらけ出された肛門に性器を挿入して腰を動かしていた。懸命なほど夢中に。遊馬の首に腕を絡ませ、真月が満足そうな響きの高い声をあげる。

 目が離せなかった。だが同時に、身体の内側がうらがえってしまいそうな強烈な吐き気にアストラルは襲われた。戻らなければ。皇の鍵の中に。そしてこの記憶を全て忘れなければ。そうでなければ。遊馬の顔を、まっすぐに見ることができない。目を逸らそうと首を動かしかけたとき、鋭い針に胸の中心を貫かれたような錯覚に陥る。菫色の、毒の塗られた針。

 遊馬の下で揺さぶられていた真月零。アストラルのことは見えていないだろう、健気だが無力な少年の菫色の瞳が……アストラルを射抜いて、笑ったのだ。

『なーに思い出してるんだぁ? アストラル?』

 厭らしい声に煽られて、気づけばアストラルは闇の中にいた。赤と青の絵の具をぶちまけて、筆でぐちゃぐちゃにかき回したような重い闇の中、漂うアストラルの目の前には灰色の肉体に翼を生やした一体のバリアンの姿があった。彼の名はベクター。真月零と姿と名を偽り、遊馬たちを騙して卑劣な罠にはめた存在。彼とサルガッソでデュエルをしていたはずが、いつの間にかアストラルだけが彼とふたりきりの空間にとばされていた。

『ああ、もしかしてあのときか? 遊馬にハブられて! 俺と遊馬が仲良くセックスしてるのをお前がのぞきに来たとき! いい趣味してるよなアストラル。いくら遊馬のことが好きだからってプライベートに干渉しすぎると嫌われちまうぜぇ?』

『なんの……ことだ』

 図星を突かれたことにアストラルは焦る。心の中を読まれているのではないかという不安に首を横に振る。これもおそらくは、狡猾なベクターの罠の一環。

『とぼけて無知ぶんじゃねぇぞ?』

 がしりとベクターに手首を掴まれて、アストラルは目を見開いた。誰もが自分に触れられないのが、この世界では当たり前のことだった。長い間共に過ごした遊馬に触れたことも触れられたこともなかったのに、ベクターはあっさりと自身に触れてきたのだ。

『ハハハ、手を握られただけで処女奪われたみたいな絶望顔しやがって! ほんとどこの生娘だよお前はよ。俺はバリアン、お前と似たような高次元のエネルギー体。驚くことなんて何もねぇはずだろ?』

 アストラルの背は闇の空間の行き止まりにぶつかっていた。壁に押しつけられるようにベクターに自由を奪われる。いやらしくゆがんだ目がアストラルを馬鹿にするように見下ろしてくる。不快極まりない。

『ほんと、残念だったよなあ。大好きな遊馬を俺なんかに奪われてよ。あのときのお前の顔……今でも思い出すだけで腹が痛いぜ!』

 げらげらと笑うベクターにアストラルは目を逸らすことしかできない。

『しょうがないよなあ……お前は俺と違って人間の身体になれねぇから遊馬に触れないんだもんなぁ……やわらかくて、バカみたいに気持ち良かったぜぇ遊馬の肌はよ。どんな風に遊馬が俺に触ったか……教えてやろうか?』

 つうとベクターの指がアストラルの胸を撫でる。ぞくりと奔る悪寒は未知のものだ。

『止めろ……』

『とかお高くとまっちゃってるけどー、ホントは知りたいんだろ? 遊馬とのセックス』

『なんだ、それは……』

 ベクターが身体中をいやらしく触っていく。アストラルは身をよじるが重い闇がまとわりついて思うように身体が動かない。

『とぼけんじゃねぇよ、ああ、遊馬の前では清純ぶりたいってか? 安心しろよ、遊馬はここにはいねぇし、あのときもニブチンの遊馬はお前に見られてたことまーったく気づいてねぇから!』

 口のない顔でキスをするようにベクターはアストラルの首筋に顔を埋める。その仕草や手つきは、彼の言うとおり……あのとき学校のトイレで遊馬が真月にしていたものとそっくりだった。

『セックス。知ってんだろ。人間の生殖行為。愛情確認のギシキ。お前が集めたナンバーズの記憶の中に、しっかりあっただろ? 人間の世界のあらゆる情報。その中の保健体育の教科書の何ページだぁ? セックスの意味ややり方が書いてあるのはよ!』

『……っ!』

 そう。ベクターの言うとおりアストラルは知っていた。セックスという言葉が何を指すのか。遊馬と真月がトイレの中で何をしていたか。

『なのに健気に遊馬の「トイレ見られたら死ぬー」なんて言葉信じてるフリして清純ぶっちゃって! あ、コイツは遊馬が俺に教えてくれたことな。「アストラルは俺がトイレ入ってる間は絶対出てこないから大丈夫だ」ってアイツいつも言っててなあ……お前のこと信じてたぜ。なのにお前はそんな遊馬を裏切ってトイレ覗いちまったわけだ。まあ仕方ねぇよなあ……遊馬の言ったこと嘘だって分かってたんだもんなあ……でもまさかあんなことしてるなんて思ってなかったろうなあ……キスどころか手をつないだこともない惚れた男が別の男とセックスしてるなんてなあ! 清純純潔なアストラルちゃんが想像できるわけないもんなぁ!』

 ベクターのたたみかけてくる言葉にアストラルは黙ることしか出来ない。愛撫と呼ばれる行為を同時にしかけられれば、処理できる情報と感情が限界値を超える。じわじわと身体を浸食するようにベクターの手が滑っていく。不快なはずなのに、嫌なはずなのに、それら負の感情・感覚とは違う何か別のものが、身体の奥底からぞくぞくと細かな震えを伴って芽吹いていく。恐怖するように身体がびくりと跳ねて震えるのだが、それは恐怖ではない別の何か。

『遊馬とセックス、したいと思ったことあんだろ? 知ってるもんなあ、セックスが人間にとってどんな意味を持ってるか……』

 両足の付け根の隙間をベクターはまさぐる。震えが止まらない。びくびくと痙攣する身体と感情。ベクターの触れたところから生まれて頭からつま先までに伝わっていく、微弱な電流のような心地よさは……遊馬のことを思いながら、独り目を閉じる夜と同じ感覚。

 遊馬に対して抱くそれと、ベクターに今与えられているものが同一といえるほど似通っていることに、アストラルは困惑する。

『安心しろよアストラル。俺はバリアン、人間じゃない……だから今からお前にするセックスはお前が考えてるようなキレイで夢に満ちたようなもんじゃねぇ。ただの嫌がらせだよ嫌がらせ、そう緊張しないで気楽に受け取ってくれよ?』

 この闇の空間はベクターの支配下にあるらしい。触手のように絡みついた闇がアストラルの股を開き、尻を突き出す。ベクターがにやつきながらアストラルに見せつけるのは彼の性器。バリアンの生殖行為がどのような仕組みになっているかはアストラルは知らない。だがそれは、ベクターの身体の一部としてはじめから備わっているもののようには思えない。

『じゃじゃじゃじゃーん、この形知ってるか? 遊馬のペニス! そっくりなのつけてやったぜえ? 俺が身体で覚えた形だからぁ再現性はバツグン! あ、もちろんホンモノってわけじゃねーけど! ハハハ、大好きな遊馬を寝取った男に純潔奪われるなんてとびっきりのプレゼントだろ! 優しくしてやるぜ、アストラル?』

 すりすりとアストラルの股の間にベクターは生やした性器をこすりつけてくる。

『貴様ッ!』

 遊馬の声色をまねて呼ばれた名前に怒りを抱く前に、ずん、と身体の内側に何か熱いものが沈み込まされた。何が起こったのか分からなかった。こすりつけられていただけの股に、穴があいていた。突き破るようにベクターの黒い性器がアストラルの身体の中に入っていた。水色の身体は透き通っている。その下でどくんどくんと脈打つ、熱いペニス。遊馬の形をした、遊馬のものではないもの。侵略者の闇の楔が、アストラルの内側に間違いなく打ち込まれている様をまじまじと見てしまったのだ。

『あ、ああ……』

 震える身体がベクターに抱き止め支えられる。それが遊馬だったなら、どれだけ幸せだったろうか。この内側で脈打つ生命の鼓動が、遊馬のものだったらどれだけ愛しかったろうか。

 そう考えている自分に気づいてアストラルは絶望する。

 自分は遊馬とセックスをしたかったのだということに気づいてしまったのだ。

 遊馬が真月とセックスをしているときにこみ上げてきた吐き気の正体に気づいてしまう。この感情の名を知っている。人間の世界のあらゆる知識を得、遊馬とその仲間たちと交流を深めた今ではもう、無視できない感情が、たくさん、怒濤のごとく、胸の中で渦を巻いている。その濁流は濁りきって醜い。とてもその流れの中に遊馬を泳がせることなんてできないほどに。

『処女喪失おめでとうアストラル。遊馬じゃなくて残念だけどな』

 ずんずんと激しく腰を動かすベクターに揺さぶられ、アストラルは悲鳴をあげ続けた。その声は遊馬の下で真月が……ベクターがあげていたものによく似ていた。

 ぽろぽろと涙をこぼしながら、胸の中に降り積もっていく感情が、悲しみや苦痛などではないことをアストラルは闇の中に悟った。

 この燃えるような熱を、欲望の固まりを、今アストラルを抱きしめているベクターは遊馬から注がれ受け止めるのを許されたのだという事実を。

 羨望のまなざしを向けるアストラルに、ベクターは優越感に浸った菫色の瞳で笑いかけ、遊馬の模倣だという熱を透明な身体の中に吐き出した。

 水色と白濁がまじりあい濁った腹を撫でて、アストラルはうっそりと笑っていた。

 

2013.04.06

すごく…いい悪堕ちでした…。

Text by hitotonoya.2013
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