チョコレートの秘密

 

「八雲お兄ちゃん、このくらい?」

「そうだね。じゃあ、型に流そうか。ああ、そっちは包丁に気をつけて」

 窓から差し込む日光だけではまだ寒さを和らげることは出来ない冬の午後だ。孤児院のキッチンは、所狭しとたくさんの女の子たちが駆け回っている。エプロンをつけて、先生代わりに彼女たちの中心にいるのは八雲だった。施設の中でも年長で、まだやんちゃな十歳以下の女の子たちにも人気の高い八雲はたまにこうして、いかにも「女の子」らしいイベントの手伝いを任されることがあった。この施設には八雲と同じ年代の「火を使っても安心」な歳の子どもが少ない。そのうえその年代の女の子は在籍すらしていない。だから八雲は少々複雑な気持ちを抱きながらも、こうしてかわいい女の子たちの面倒を見ることになっている。

 今日はバレンタインデー。日頃の感謝の気持ちを、あるいは恋愛感情を籠めて、女子が男子にチョコレートをプレゼントする日だ。

 バレンタインデーへのあこがれは、まだ小学校に上がったばかりの年頃でも、女の子にとっては強いものだ。施設内の気になるあの人へ、もしくは未だ恋愛を知らなくても、いつもお世話になっている先生へ。はたまた明日の学校でクラスメイトに、などなどの理由で、女の子たちが集まってチョコレートを作るのは施設でも年に一度の恒例行事となっている。とはいえこのキッチンの中にいる女の子たちのほとんどが、一番チョコレートをあげたい相手が八雲興司だということは、その場にいるにも関わらず本人は長年知らないのだけれども。

「やぐもおにーちゃん! おにーちゃん!」

「あーっ、泥まみれでキッチン入ってきちゃだめだよー!」

 甲高い声が悲鳴混じりにあちこちから響く。幼稚園にあがったばかりの女の子が、外で泥遊びをしていたそのままの格好でキッチンに入ってきたのだ。

「やだ、何持ってるのよー!」

「きゃっ、蜘蛛だよ、蜘蛛ー!!」

「そんなのはやく外やってよ、外!」

 更にはその手に大きな蜘蛛を掴んでいたのだからたまったものではない。背中の後ろに隠れたり、すがるような目で懇願してくる少女たちに、苦笑いしながら八雲は前に出る。蜘蛛を持った女の子は年長の子たちの悲鳴をものともせず、得意げに蜘蛛を八雲につき出してみせた。

「よーちえんのおともだちが言ってたの! クモって食べるとチョコの味がするんだって!」

 言いながら、作りかけのチョコレートを見つめる彼女はきっとその蜘蛛を中に入れたかったのだろう。咄嗟にボウルの中や鉄板の上のチョコレートを抱えて逃がす女の子たち。八雲は苦笑して、蜘蛛を持つ女の子と視線を合わせるようにしゃがみこんだ。小さな指に挟まれてなお、蜘蛛は八本の脚を蠢かせていた。生きている。

「その子、まだ生きてるのにそんなことしたらかわいそうだろ? それに、蜘蛛が怖いって子もたくさんいるしね」

 言いながら優しく手を出せば、女の子はあっさりと八雲の掌の上に蜘蛛を乗せた。八雲はその蜘蛛をティッシュペーパーに包む。

「チョコレートの中に入れたら本当にチョコレート味がするのかわからなくなっちゃうだろ? チョコレートが食べたいなら、あとで作ったチョコレートあげるから。今日はそれで我慢しようね」

 優しく宥めるように言えば女の子は素直に頷くとキッチンから駆けて出て行ってしまった。周りの女の子たちはほっと胸を撫で下ろす。同時に八雲の見事な手腕に対し頬を赤らめる子も少なからずだ。

「……蜘蛛って本当にチョコの味するのかなあ」

「さあ……食べたことないからわからないけど、ちょっと想像できないよね。もっとこう、苦かったり、青臭かったりするんじゃないかなあ」

「八雲お兄ちゃん、あんまりそういうこと言わないでよ、想像しちゃった……」

「あ、ごめんごめん。じゃ、続きにとりかかろうか。ちょっと泥で汚れちゃったから、僕は床の掃除してるよ」

 そうして雑巾を取りに行ったとき、廊下の向こうに見知った顔を八雲は見つけた。

 神代凌牙。八雲と同年代のルームメイト。凌牙はすぐにこちらから見えなくなる場所まで歩き去ってしまったけれど、一瞬、彼の青い瞳と間違いなく目があった。

 作り終わったチョコレートは丁寧にラッピングされて、施設の先生や男の子たち全員に配られた。八雲は自分で作ったチョコレートを自分で貰う形になったが、今回はなかなかうまく出来たのではないかという自負があったため、苦笑は浮かべてしまえども、それほど悪い気分にはならなかった。

 一人の女の子が青いリボンのかけられたチョコレートを持って、部屋の隅に向かっていく。ぽつんと一人で目立たない場所にいたのはもちろん凌牙だ。最後にして最大の難関といったところだろう。女の子はもう少しというところまで近づいたというのに、凌牙が愛想の悪い眼差しを向けるものだから、怯えて帰ってきてしまった。

「八雲……」

 上目遣いに泣きつかれて、八雲は溜め息を零す。彼女からチョコレートを受けとると、彼女を背に隠しながら今度は八雲が凌牙に向かう番だった。

「凌牙」

 そんな顔しないで、ちゃんと受け取ってあげないと。

 そう言いかけたときにはもう凌牙は施設の全員が集められた大部屋から立ち去っていた。八雲の背中でことを見守っていた女の子が寂しそうに肩を落とす。

「凌牙は恥ずかしいんだよ。キミが嫌いなわけじゃない」

 この子だって、凌牙の本当の優しさを知っているからこそ、彼にチョコレートを渡す役を任されてくれたのに。

 少女を慰めながら、八雲は「僕がちゃんと、チョコレートは渡しておいてあげるから」と微笑んだ。

 夕食も終えて、後は眠るだけになった夜。孤児院の消灯は早い。風呂あがりの八雲はふたつのマグカップを手に部屋に戻った。凌牙はいつも眠る前にホットミルクを飲むことを、同じ部屋で暮らす八雲はよく知っていた。

 寝間着で机に向かって座っている凌牙の、宿題をしているのだろう、ノートの横にコトリと小さく音を立ててマグカップを置いてやる。

「はい」

 微細な振動で波打った、カップの中の白い液体を認めて凌牙はマグカップを手に取る。こうして二つのマグカップにホットミルクを入れてくるのは、お互いしょっちゅうしていることだ。両手で抱えたマグカップから伝わったじんわりとしたあたたかさに凌牙は安心したのか、素直にその中身を口に含んだ。……が、凌牙の顔は直後に歪む。

「甘っ……」

「そりゃそうだよ、ホットチョコレートだもの」

 昼間のあまりのホワイトチョコレートで作ったんだと悪戯っぽく笑ってやる。牛乳に見せかけて(というほど細工も何もしていないのだが)凌牙に渡したのに、まんまと彼は騙されたのだ。

「せっかく皆で作ったのに、どうして貰ってあげなかったんだ?」

「俺なんかに渡すより、あの子だって、お前みたいなヤツに食べてもらったほうが嬉しいだろ」

 目を伏せて呟く凌牙の表情は八雲ももう何度も何度も見ているものだった。死んだ魚のような目だ。

「凌牙のために作ったのにか?」

「ガキたちはそんなこと思ってないだろ」

「……僕はそう思いながら作ったよ。このチョコレートは凌牙に食べてもらうために、って」

 凌牙の瞳を覗きこんで、八雲はまっすぐに言った。八雲もチョコレート作りに参加していることを凌牙は知っているはずだ。凌牙の目が驚いたように見開かれる。頑なに見える彼の心を動かすのは周りが思っているよりずっと簡単だということを八雲は知っていた。根は優しいのだ、凌牙は。優しすぎて傲慢なほどに。

「皆の気持ちなんだからさ、こういうのは。……素直に受け取ってくれよ」

「………」

 黙る凌牙の手に先ほど渡しそこねたチョコレートの箱を握らせる。蓋を開けて、現れたハート型は濃い色をしたビターチョコレートだ。一枚つまみ上げて、八雲はそれを自分の口の中に入れた。そうして口内で少し溶けた頃……八雲を見上げていた凌牙の唇に唇を重ねる。呼吸をするようにそれを開いた凌牙に、溶けかけのチョコレートを口移しする。舌を絡ませて、凌牙の中じゅうにチョコレートの味を思い知らせる。

「ん……」

「チョコレートの味だ」

 唇を離した八雲はぺろりと舌を見せて微笑んだ。

「当たり前だろ、ホットチョコまで飲ませられてるんだぜ」

 頬を、間近にいる八雲だけが気づくほどに赤らめた凌牙が恥ずかしそうに目を逸らす様は可愛らしい。

「ちゃんと食べたね」

「………」

 まるで幼児相手にするように確認する八雲に、凌牙も頷いてから、箱に残ったチョコレートを摘んで口に運んでいく。

 そんな凌牙が微笑ましくて、八雲は彼がチョコレートを全部平らげるまで、机に頬杖をついて眺めていた。

 

2013.02.14

真相はご想像にお任せしますが私はまあご想像の通りの気持ちで書きました。

Text by hitotonoya.2013
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