ヘリオトロープに焦がれて眠る

 

 廃墟と化したゲームセンターは、かつては不良グループのアジトとして使われていたのだが、今ではもう足を運ぶものは誰もいなくなっていた。以前にも増して埃や蜘蛛の巣が蔓延っている。

 ハートランドシティの再開発の動きにも忘れ去られたこの場所は、周囲の建物よりも低い、半地下のような場所に作られている。窓のない構造で、未だ日も落ちていないというのに中に足を踏み入れれば辺りを照らすものは、電源が入りっぱなしのままのアーケードゲームの筐体のディスプレイだけだ。湿った空気をどこか懐かしく感じながら、俺はため息を吐いていた。

 いくらなんでも、アイツがこんな場所にいるはずがないのに。

 この場所は俺にとっては特別思い出の深い場所だった。ヘボデュエリストにまで負け、周囲の誰からもついに見放されて、利用されて捨てられるだけだということが分かっていながら、どうしても居場所が欲しくて入った不良グループのアジト。学校をサボって、だが何をするでもなくこの場所でただ独り俯いて過ごしていた。……あの日、あいつが来るまでは。

 らしくもなく物思いにふけていると、カツン、と床を打つ音がした。それは俺の頭よりも高い場所から聞こえた。咄嗟にその方向を見る。そこには二階へと続く階段があった。カツン、カツン、規則正しく音は続き、人影が揺れている。暗闇の中階段を降りている影は、俺よりも少し小さな子どものもののように見えた。なんでそんなガキがこんな場所に迷い込んでいるのか。他人のことは決して言えない立場で思いながら、しかし、一目ディスプレイのライトに照らし出された姿を見てしまえば、呼吸を忘れた。まさか。こんなところに。どうして。でも。

「遊、馬」

 何をするよりも先に名前を呼んでいた。震える声は喜び、愛しさ、嬉しさ、そんな待ち望んだ感情だけではないものまで宿してしまっている。本能が感じていたのだ。恐怖を。

 九十九遊馬。階段の踊り場の上で、見知ったはずの後輩の瞳が、今まで見たことのない、冷たい色をして俺を見ていたのだ。

 遊馬はその瞳以外は普段と変わりない様子だった。ツンツンと跳ねた前髪に、赤いベスト。白いズボン。ノースリーブのシャツ。ああ、ひとつ違う。その胸にいつも輝いていた金色のペンダント……皇の鍵を彼は身につけていない。それは、当然だ。だってその鍵は今、遊馬の幼なじみが持っているのだから……。

「神代凌牙」

 耳のすぐ近くで吐息を感じた。凍えるほど冷たい息だ。いつの間にか遊馬の顔が、俺の目の前にあった。無表情のまま、俺をいつもの「シャーク」っていうあだ名で呼ばなかった遊馬。ぞくりと背中に奔る、凍り付くような悪寒。

「ゆう、ま……」

 金縛りにあったように身体は動かなかった。遊馬の両腕が俺の首に蛇みたいに絡みつく。薄く開かれた唇の隙間から、鋭い犬歯が輝くのが見えて、次の瞬間、灼熱の杭を打ち込まれたような激痛が、首からはじまって身体中を、駆けめぐっていった。

 

 

 

 遊馬が行方不明になってから、もう一ヶ月以上が過ぎている。

 俺と、遊馬、その相棒の不思議な生命体アストラル、そして天城カイトは、ハートランドシティを守るために共に闘うことを誓った仲間だった。ナンバーズというアストラルの記憶が封印されているらしいカードを巡り、決して知るものは多くはないが、この街では日々闘いが繰り広げられている。人々を操り、遊馬とアストラルの集めたナンバーズを狙ってくる脅威……吸血鬼。彼らを倒す力を秘めたナンバーズ。それを使い、俺たちは、この世界やそこに生きる大切な日とを守るために闘っていた。

 そんな中、遊馬が突然姿を消したのだ。誰にも、何も告げることなく、相棒であるアストラルも皇の鍵と一緒に置き去りにして。

 遊馬は、彼自身の存在の記憶ごと、この世界から姿を消した。彼の存在を、クラスメイトも担任も、家族さえも覚えていない。信じられないことだが遊馬のことを誰もかも綺麗さっぱり忘れてしまっていたのである。今となっては、遊馬の記憶を持つものは、俺やカイト、アストラルとその関係者数人だけだ。

 遊馬はもっとも吸血鬼達に恐れられている存在だった。数々のナンバーズを操り、アストラルと合体してゼアルに変身し、勝利をその手の中に創造する……。だからこそ真っ先に俺たちは、遊馬が姿を消したのは吸血鬼が関わっているのではないかと推理した。

 だが、カイトの科学力を持ってしても、璃緒の不思議な予言の力を借りても、遊馬の手がかりを掴むことはできなかった。

 それまでひっきりなしにナンバーズを狙い俺たちを襲っていた吸血鬼もそれ以降現れなくなり、俺たちはどうすることもできない現状に苛立ちと焦りを隠せないでいた。

 俺は何の知識も力も持っていなかった。だから、足を使って遊馬を探し回ることしかできなかった。無力な自分を何度責めただろう。だからといって、何かの力が突然俺に備わることはないから……来る日も来る日も遊馬を探した。街中を。心当たりのある場所もない場所も。

 そうして毎日毎日探しに探し続けて、今日が来たのだ。遊馬と再会出来ることを信じて諦めずに。何事をも諦めて、諦めることを他人にまで押しつけていた俺に、諦めない気持ちを取り戻させてくれたのは他でもない、遊馬、お前だったから……。

「う……」

 目を開く。薄ぼんやりとした月の光が、ステンドグラスでできた小さな窓から差し込んでいる。冷たい空気が辺りに満ちている。身震いがしたが、俺の腹の上には見慣れぬブランケットがかけられていた。どこか知らない部屋の中で、俺はソファの上に寝かされていた。ソファは古びていて、ところどころがほつれて中身が飛び出している場所もあった。

「目、覚めたんだ」

 聞き慣れた声がして、びくりと振り向く。おかしな話だった。どうして俺がこの声を聞いて、怯えたように肩を跳ねさせなければならないのだろうか。

「遊馬」

「それ、俺の名前なのか?」

 遊馬は俺の向かいのソファに腰をおろしながら、純粋に、不思議そうに首を傾げた。その表情は先ほどの無表情なものとは打って変わった無邪気な笑顔で、俺はほんの一瞬、あの冷たい瞳は気のせいだったのだと思ったけれども、しゃべる遊馬の口の中に、夜の闇の中でもぎらりと光る牙を見つけて抱いた期待を胸の奥へと押し込めた。ずきりと首筋が痛む。……遊馬に噛まれたことも、どうやら事実のようだった。

「俺、まだ名前がないんだ。そのうえ、記憶っていうか……昔の思い出がなーんかハッキリしないんだよな」

「名前が……ない?」

「そう。吸血鬼って、一人前だって認められない限り名前がもらえないんだってさ。俺の上司が言ってた」

 遊馬は少し不満そうに、俺に自分の話をした。上司なんて存在が、吸血鬼の社会の中にもあることを俺は初めて知って驚いた。

「俺の名前は知ってるんだな」

「上司が教えてくれたんだ。神代凌牙に天城カイト、それからアストラル……俺たち吸血鬼が生きるためには、そいつらを倒してナンバーズを手に入れなくちゃいけないんだって。それで、俺はお前を殺しに派遣されたわけ。この仕事がうまくいけば、名前ももらえるらしいし……」

 ソファの上で手を組みながら、遊馬はデッキケースの蓋をあけた。見慣れたそれは、俺のデッキケースだった。腰に手をやる。肌身離さず身につけていたデッキケースはおそらくここにつれてこられるときに奪われたのだろう。

「それ以外にお前が知ってること……覚えてることは」

「お前を最初に始末した方がいいって上司に言われたことくらいかなあ。お前、ナンバーズ一枚しか持ってないだろ? だから、はじめての俺でも闘いやすいだろうって。優しいんだか厳しいんだかよくわからないんだよなあ、俺の上司」

「……つまり俺はなめられてるってことか」

「こんなに簡単に血を吸わせてくれるんだから、なめられても仕方ないんじゃないか?」

 ぺろりと舌で唇を舐めて、遊馬は俺の首を見つめた。

「お前の血、すっごいうまかった。俺、人間の血吸ったのはじめてなんだけど……こんなにおいしいんだなって、びっくりした。なんとなくわかるんだ。誰の血でもこんなにうまいわけじゃない、お前のだからうまいと思うんだって。しかもそれは、吸血鬼のみんながそう思うんじゃなくて、俺が……俺だからそう思うんだって。お前は俺の大好きな食べ物なんだって。だから、全部吸わないで、とっとくことにした。じっくり食べれば、長い間食べられるってことだろ?」

 遊馬はまるでとびきりのディナーを食べたときのような顔と口調で俺を食餌扱いする。目の前の遊馬は、嘘を吐いたり、演技をしているようにはとても見えなかった。外見に相応しい無邪気さで、純粋に、自身の記憶と本能を信じている。正真正銘の吸血鬼だった。……もしかすると、彼は遊馬ではなく、うりふたつの別人なのかもしれない。俺たちをだますために送り込まれた、彼の言う「上司」からの刺客なのかもしれない。けれど、それにしてはあまりにも、彼は遊馬に似すぎていた。見た目も、声も、表情も、その全てが。

「お前は……遊馬、なのか?」

「だから、さっきも言っただろ。俺には名前がないんだって」

「……本当に、そう、なのか」

「そうだよ」

 疑いもせず遊馬は即答する。

「……でも、お前がそう呼びたいならべつにいいよ。呼ぶ名前がないと不便だもんな」

 彼は遊馬じゃないかもしれない。むしろ俺はそう願うべきだろう。だってこいつは遊馬の記憶を持っていない。遊馬が敵の手に落ちて、吸血鬼になっているなんて最悪のシナリオではないか。なのにどうして、俺は。

「遊馬………っ」

 こいつを、遊馬と、呼んでしまうのだろう。

「ユウマ……ユウマかあ。なんか、お前にそう呼ばれると、嬉しい」

 そのとき間違いなく俺を見て、にっこりと笑った一匹の吸血鬼を、俺の魂は、遊馬と呼びたいと思ったのだ。

「じゃあ俺も、お前の呼び方、決めないとな。神代凌牙ってなんかしっくりこないし……」

 遊馬は先ほど取り出した俺のデッキをぱらぱらと見た。四十枚、メインデッキ。その次は、エクストラデッキ。ナンバーズのカードも中には入っているはずだったが、遊馬は無理矢理奪うことをしなかった。ナンバーズはデュエルで奪い合うしかない……そのことを彼は覚えているのか、それとも「上司」に教わったのか。

「鮫のモンスターばっかり使ってるんだなーお前。そんなに好きなのか?」

 尋ねる声は嫌味を少しも感じさせない。好奇心にあふれている。俺の知っている遊馬も、以前、似たような質問をしてきた。

「ハンマーシャーク、シャークサッカー、ツーヘッドシャーク、シャークフォートレスに、エアロシャーク……シャーク……シャークかぁ」

 ぶつぶつと呟いて、遊馬は俺を指さした。

「決めた。シャークって呼ぶからな。シャーク……うん。シャーク。すごく似合ってる。しっくりくる。シャーク!」

 その呼び名を、その声を……いつぶりに聞いただろう。懐かしさと愛しさに、こみ上げる感情が俺の動きを止めた。小さく震える身体に、いつの間にか手が触れている。身体に対して大きめの、子どもの手。カードを操るその手を何度見ただろうか。

「シャーク」

 間近で囁かれて、俺は瞼を閉じた。受け入れるように。

 やはりこの吸血鬼は俺が探した遊馬なんだ。

 確信を抱きながら、俺は遊馬に再び歯を突き立てられ、血を吸われた。

 

 

 

 締め切ったカーテンから差し込む朝日から逃れるように布団を頭から被る。鳴り響くアラーム音がうるさくて、曖昧な意識のまま手探りで目覚まし時計を止める。訪れた静寂に、再び眠りの闇へ落ちかけたところで……眩しい日光が、俺の全身を直撃した。

「起きなさい、凌牙!」

 強い口調で言いながら手早くカーテンを全開にした璃緒は、俺のくるまっていた布団までをも奪い取った。ぶるりと身震いがするのは、布団を失った寒さからだろうか。

「学校、遅刻しちゃうぞ?」

「……う……」

 重い瞼を擦って開いてみれば、目の前には既に制服に着替えた璃緒の姿があった。のそのそと起きあがる。璃緒が手際よく俺の箪笥から勝手に制服を取り出して準備している。

「遊馬のことが心配だっていう凌牙の気持ち、分かるよ」

 ネクタイを手渡してくれながら、璃緒は言う。

「でも、それにしても、凌牙。最近帰りが遅すぎるわ。元から朝強くないのに、余計弱くなってるじゃない。ほら。ちゃんと朝日浴びなさい。体内時計は朝の日差しで整って、目がぱっちり覚めるって言われてるじゃない」

「……ああ」

 返事だけをして、着替えるから、と璃緒を部屋から追い出した。

「………」

 ぼんやりと未だ働かない頭で窓を見つめる。朝の日差しは、今の俺には眩しすぎて……思わず、レースカーテンだけはシャっと閉めてしまった。

 遊馬と再会を果たしてから、今日で何日目だったか思い返そうとして頭痛に遮られる。……遊馬に血を吸われることを繰り返すうちに、俺自身までも日光に弱くなっていた。

 吸血鬼は、昔からの伝承の通り太陽の光が苦手だ。吸血鬼は日光に当たると死にはしないまでも、極端に体力を消耗して満足に歩くことすら出来なくなる。だから彼らは昼の間は屋内等太陽光の当たらない場所に潜み、主に夜に活動している。

 そして、こちらもまた伝承の通りなのだが、人間を操ることもできる。眼力で暗示をかけられ、しもべとされた人間が、俺たちを襲ってくることは多々あった。彼らは血は吸われていなかったから、デュエルして倒せば正気に戻ることができた……だが、血を吸われてしまった場合、どうなる? よくある映画や漫画では、血を吸われたものは吸血鬼と化すことになっている。……日光に当たるだけで気分が悪くなるようになった俺は、つまり、そういうことなのではないだろうか。

 首を振る。他人の血を吸いたい、などと俺は今まで一度も思ったことがない。少し顔色が悪くなったような気はするが、牙も生えたりしていない。俺は俺のままだ。そんなことを考えるよりも、この、立ち上がるだけで頭がくらくらする、貧血の症状をどうにかするべきだった。

 璃緒と向かい合いながらリビングで朝食を食べる。バタートーストに牛乳。スクランブルエッグにサラダ。食欲はなかったが、血が足りない今、全て食べるべきだった。

 遊馬に会って話をしていることを、俺は璃緒にも、他の誰にも、言うことが出来なかった。言わなければならないと分かっているのに、どうしても言えないのだ。それは俺に勇気が足りないからなのだろうか。それとも……。とにかく、俺はもう、片手では数えられないほどの夜を遊馬と過ごしていることを、誰にも言えないままだった。皆が遊馬のことを心配して探していて、一刻も早くの再会を願っていることは、十分分かっていたはずなのに。何事もなかったかのように、俺は朝起きて、学校に行って、帰宅すれば遊馬を探すふりをして……そんな毎日を繰り返している。

 繰り返しているといえば、夜になると遊馬は毎日俺の前に必ず現れた。……否、夜になると俺が遊馬の元に毎日行っているのだ。呼び出されてもいないのに。毎晩遊馬は同じ場所にいるわけではないのに。奇妙なことに、俺の足は迷わず遊馬の行る場所へ向かって動くのだ。

 今日も遊馬は俺の前にいた。夕日の沈んだ海を眺めるように、海沿いの道路に佇んでいた。

「シャーク」

 唇が弧を描き、きらりと牙が光るのが見える。俺は何も言えずに、遊馬に手を引かれて、さらわれるように彼の後についていく。

 遊馬の根城はハートランドシティの外れ、湖上にある小さなしかし美しいつくりの建物だった。吸血鬼が住んでいてもおかしくないようなそこは、以前は美術館だった。ホールから階段を上がり奥へ進めば、かつては応接室として使われていたような、ソファやテーブル、本棚の並んだ部屋がある。そこで俺は、毎晩遊馬の食事につきあわされる。

「シャークって本当に俺のこと好きなんだな」

「んっ……はぁ……ん」

 噛みしめたはずの唇はいつの間にか緩んで、隙間から情けない声が漏れていく。ソファに腰掛けた俺の脚の間に、遊馬が床に膝をついて座っている。俺のズボンは脱がされていて、下半身には既に何も身につけていない。むき出しになった俺の性器を舐めながら、遊馬はそう言ったのだ。吸血鬼の食餌は血液だけではない。精液もまた、彼らにとっては至上の馳走なのだという。

「あ、あぁ」

 声を堪えることも忘れて喘ぐ。遊馬の与える快楽は絶望的なまでに大きくて、あっさりと俺の理性を食らいつくしてしまう。何も考えられない。視界にも、もう、遊馬しか映らない。

「どうして俺のこと、仲間に言わないんだ?」

「んあ……ふぅ……」

 質問に答える代わりに喘ぐ声だけを返す。俺にはもうそれしかできない。性器の裏側を舐めらる。ぞくぞくと奔る痺れがつま先を浮かせた。

「分かってるぜ。仲間に言ったら……俺とふたりっきりで、こんなこと、もうできなくなっちまうもんな」

「んっ、ああっ!」

 びゅる、とついに吐き出される精液。遊馬はそれをうまそうに飲み干す。射精の余韻に浸るよう、肩で呼吸をする俺の首筋に、遊馬は唇で舌を舐めながら腕を絡めてくる。そうしてついさっきまで性器をくわえていた口で俺に首に噛みつきながら、ソファの上に俺を押し倒した。

 吸われた体液の代わりに、遊馬は俺に快楽をくれる。

 皮膚に食いやぶる牙、身体から抜けていく血。それも既に愛撫のひとつだと俺の身体は覚えた。乳首をこねられ、肌をすりすりと撫でられ、にっと笑われる。感情を直接表情に出す遊馬のそれと同じだったけれど、そこに侵略者としての優越感がにじんでいる。俺はそれに、もう悔しさとか反抗心だとかが浮かんでこない。隷属の快感に脳を支配されている。

「ああ……あああっ……」

 簡単に遊馬の侵入を許した、とろけきった内側への、痛み混じりの快楽に、吸血のときと同じように俺は虜になっている。遊馬の精液が俺のなかにそそがれる。焼かれるような熱と快楽。それは俺の身体を内側から焼き尽くし侵略する吸血鬼の体液。吸血鬼の体液を受けた細胞が変異していくのが分かるんだ。俺が人間でなくなっていくのが分かるんだ。毎晩行われるセックスは、吸血鬼の食事と同時に料理でもある。吸血鬼の体液は俺の身体を作りかえていく。より遊馬がおいしく食事ができるように、彼に適応するように、俺を人間でなくしていく。

 

 

 

 目を覚ますとトマトジュースの紙パックがひとつ、俺の前のテーブルに置いてあった。俺が起きあがれないでいるうちに、もう一つトマトジュースの紙パックがその隣に置かれた。更にもう一つ。

 重い身体を起こしてみれば、トマトジュースを腕いっぱいに抱えた遊馬の姿があった。

「トマトジュース。血に一番近い飲み物なんだって。上司が教えてくれたんだけど」

 遊馬は面倒になったのか、大量の紙パックをどさどさとテーブルの上に落とした。全部トマトジュースだった。

「………」

 ソファの横に落ちたままだったズボンを拾い上げて、そのポケットの中のDゲイザーを取り出す。時計を確認すれば、俺は遊馬とセックスをして、血を吸われてから、おそらく二時間ほど気絶していた。その間にどこからか調達してきたのだろう。

「……その上司にもらったのか、コレ」

「そう。良く分かったな。はやくこの世界に馴染んで活動できるように精力つけろって。でも俺、トマト苦手なんだよな〜。どうも味がさ」

 トマトが苦手だと言う遊馬に、俺は前に彼と同じ部屋に入院したときのことを思い出した。朝食に出たサラダのトマトをあいつはよけて食べていて、結局最後まで皿の上に残っていた。何でもよく食べる印象があったから、珍しいこともあると眺めていたら遊馬は苦笑いをしたのだ。

『トマト、食べれないことはないんだけど……どうもまだちょっとニガテっつーか……』

 子どもじみた言い訳だった。だけれどもそんな遊馬の一面をみれたことが嬉しくて、俺は手をのばしてそいつを摘むとぱくりと食べてしまった。『あー!』と遊馬は驚いた声を上げて、嫌いだと言う割には悔しそうにしていたけれど。

 ……そんなことがあったから、俺はますますこの吸血鬼が遊馬なのだと確信してしまう。

「……俺の血はトマトジュースの代わりってわけか」

「そうとも言うけど、その言い方なんか悪くないか? トマトジュースより、俺はお前の血のがずっとうまいし栄養にもなるから飲んでるの。シャークにやるよ、これ。最近顔色悪いし、栄養ちゃんととれよ」

 差し出されたトマトジュースの紙パックを受け取る。全く、どの口でそんなことが言えるのだろうか。ストローのビニールを破りながら考える。栄養というのは純粋に人間としての俺が貧血で血が足りないことを差して、トマトジュースで補えと言っているのだろうか。それとも、吸血鬼が血液の代替飲料として飲むトマトジュースを、俺にそいつらと同じように栄養としろと言っているのだろうか。俺の身体は、今どこまで人間でいるのだろうか。

 白いストローが吸い上げる、赤い液体。それは間違いなく飲んだ覚えのあるトマトジュースの味。一口飲んで、俺は遊馬を見た。不思議そうに遊馬は首を傾げた。ふっと俺は唇から息が漏れた。

 遊馬がそんな難しいことを考えるわけがないんだ。遊馬はただ単純に、俺のことを心配してくれたのだ。あいつはいつだって、そういうやつだった。そして、今も。

 

 

 

 太陽が眩しい。眩しすぎて焼けてしまいそうだった。呼吸が苦しくなり、ずきずきと後頭部を金槌で殴打されるような頭痛が続く。それでも俺は、この場所に来るのをやめられなかった。

「ゆうま」

 無意識に名前を呟いていた。

 このテラスは、学校の中で一番気に入っている場所だった。焦がれるように太陽に手をのばす。そうするだけで手が届きそうなほど、ここからは太陽が近く見えるのだ。この場所で、俺と遊馬はよく会った。他愛ない話しをしたり、宿題を教えてやったり、デュエルをしたり、キスもした。そのたびに遊馬は、太陽の光に照らされながら、満面の笑みを浮かべていた。その笑顔の輝きが、太陽そのものみたいだと俺は思っていた。俺はやっぱり、遊馬の、その太陽みたいな笑顔が一番好きなんだ。

 のばした腕が、力なく降りていく。太陽に絶対に届くことがない手。俺は諦めるようにずるずるとフェンスに背中を擦りながら、テラスに座り込んで……そのまま倒れるように眠ってしまった。

 

 

 

 璃緒が眠ったのを確認して、俺はこっそりと家を抜け出した。バイクにも乗らず、こうして毎晩毎晩歩いて彼に会うようになって……もう随分と長い時間が経った気がする。

 今夜の月はやたら細い。もうすぐ新月なのだろう。冴えた夜の空気が新鮮で気持ちよく感じるのは、人間として自然なことなのだろうか。それとも。月を真似て、俺が自嘲しようとしたときだった。

「凌牙」

 聞き覚えのある声が俺の名前を呼ぶ。後ろから腕を掴まれ、ぐいと強い力で引っ張られて引き留められた。情けないことにたったそれだけの動きで俺の身体は自分を支えられなくなってぐらりと傾く。くらりと目眩までして視界が揺れる。このまま地面に頭をぶつけるのかとぼんやりと思った直後に、俺は腕を掴んできた男の身体に受け止められていた。俺をのぞき込んでいる、グレーの瞳には見覚えがあった。天城カイト。俺と、かつての遊馬と一緒に、闘っていた仲間。カイトは俺を無表情な……否、少し厳しい目で見つめるだけで「大丈夫か」の一言も俺にかけることはなかった。

「……すまねぇ」

 だから俺は少し嫌味っぽく礼を言って、カイトの身体を押して立ち上がる。また歩きだそうとすると、腕が掴まれたままだったことに気付く。

「どこへ行く」

「どこって……決まってるじゃねえか。遊馬を探しに、だよ」

「………」

 カイトは先ほどと同じように俺を無言で睨んでいる。何かを言いたげに。……カイトが俺に何を求めているかなんて本当は分かっている。その銀色の瞳は俺の考えを間違いなく見透かしている。

 気付かれている。

 ため息がこぼれた。肩の力が抜けていく。……当たり前じゃないか。もう俺は、周りのやつらを誤魔化すことができるほど正常でも冷静でもなくなっている。ましてや俺の周りにいるやつは、皆やたらとカンが鋭いし、洞察力にも長けている、吸血鬼なんて超常の存在と闘うに相応しい能力を持っているやつばかりだった。

「璃緒に頼まれたんだ。お前の様子がおかしいと」

 俺が白状する前に、カイトが種明かしをしてきた。俺の一番近くで俺と一緒に生活していた璃緒が気付かないはずがないのだ。誤魔化せるはずがないのに、璃緒はずっと俺を信じてくれていたのだ。……大切な妹に、隠し事をし続けた兄のことを、璃緒は、今日の今日まで、何も言わずに。彼女の能力をもってすれば、カイトにこんなことを頼まなくてもすぐに俺を問いつめられただろうに。

 首を一度だけ横に振って、俺は拳を握りしめた。指先が震えて力が入らない。目を見開いて、カイトの銀色の瞳をまっすぐに見据えた。学園一の不良と学園内外で名を馳せた俺のひとにらみは、果たしてその精彩を今でも保持しているだろうか。

「……新しい吸血鬼がこの街に来てるんだ。そいつは未だ吸血鬼の力を完全に使いこなせてねえ。人を操って俺たちにけしかけてくるとか、そういう力は使えない。この世界で十分な活動は未だできない。だから……被害が広がる前に、倒すなら……今だ」

「広がる?」

 カイトは鋭く俺の言葉を反芻した。

「………」

「もう既に、そいつの犠牲に誰かがなっている。……そういうことか?」

 腕を掴んでいたのとは逆の手が俺にのびた。襟元を掴まれ、ぐいと服をずらされる。空気に晒される首筋。そこに貼られた、大きめの、一枚の絆創膏。皮膚がひっぱられる。べり、と音をたてて、強引に剥がされた。

 そこには小さな二つの穴が、ぽっかりと開いていた。その痕がなんなのか、カイトが知らない訳がない。吸血鬼に噛まれ、血を吸われた証。

「お前」

「吸血鬼は……遊馬だ。あいつは、俺たちの記憶をなくして吸血鬼になってたんだ。あいつは……自分が遊馬だったことすら覚えてねぇ」

 まさかそんなことが。カイトは声を上げなかったが、感情を押し殺した表情の下で、そう思ったのは間違いないだろう。俺もはじめはそう思ったのだから。

 腰に下げたデッキケースの蓋を俺は開けた。出しやすいように、一番上においておいたカード。人差し指と中指で滑らせて取り出す。それは黒枠のモンスター・エクシーズ。金で刻まれた文字はNo.32 海咬龍シャーク・ドレイク。吸血鬼の好みそうな血の色をしたモンスター・カード。……かつて遊馬が、俺に渡して共に闘うことを願ってくれたカード。カイトの眼前にそれを差し出す。

「凌牙、お前」

「お前が……こいつを、預かっていてくれ。吸血鬼……あいつらの狙いは、ナンバーズだ。決して、奪われちゃならねぇ……」

 俺の身体はもう、限りなく人間ではなくなっているのだろう。

 遊馬の……吸血鬼の体液を何度も浴びて、俺自身の血はほとんど抜かれている。今、俺を動かしているのは俺ではない。遊馬。つまり吸血鬼だ。それでもこうしてどうにかカイトと話して、こうしてナンバーズを譲渡しようとすることが出来ているのは……何故だろう。俺の意志の力、だったりしたら少しはかっこつくかもしれない。でもきっとそうではなくて……遊馬の情けとか、人間だった頃の記憶の残滓みたいなのが、そうさせてくれているような気がしたんだ。

「今から俺は、遊馬とデュエルをしてくる」

「だったらなおさらこいつが必要だろう、お前には!」

 ナンバーズは吸血鬼の目的であると同時に吸血鬼と闘う力でもある。超常の力を持つ吸血鬼の操るモンスターに対抗できる力を秘めたもの。そんなことは分かっている。それでも俺は首を横に振った。

「もし俺が負けたら……俺はこんな状況だ。なんの抵抗もできねぇでナンバーズを奪われちまうだろう。そいつは……避けなきゃ、なんねぇから……お前が、預かっててくれ。不安がるんじゃねぇよ。あいつは遊馬だ。……遊馬になら、俺だって、勝ったことあるぜ? しかも、ナンバーズなしでも、な。それに」

 カイトがナンバーズを持ったことを確認すると、俺は手を離した。No.32の所有権はカイトに移る。

「デュエルで俺が勝ったら、遊馬が元に戻るなんて……そんな感動のハッピーエンドもありえるかもしれないだろ?」

 はっ、と息を出して笑って見せた。カイトは俺の現状を察したのだろう。最早何も言わずに、No.32をしっかりとその手で持つところを俺に見せて、ずっと掴んでいた手を放してくれた。

「凌牙……お前」

「邪魔……すんじゃねぇぞ。もし上手くいったら、真っ先にお前に連絡してやるから……日が登るまでは絶対動くんじゃねぇ。璃緒も起こすな。……いいな」

 カイトの言葉を遮るように、俺は畳みかけてそのまま踵を返した。振り返ることなく俺は俺の足が動くままに遊馬の元へ向かう。血を吸われるために? 彼の食餌になるために? 違う……。遊馬とデュエルをするために。デュエルをして、先ほどカイトに語ったみたいな夢物語が叶うことを願っているのだ。心の底では、諦めながら。

 その諦観を自覚して、俺は涙が出そうになった。

 全てを諦めていた俺に、決して諦めないことを教えてくれたのは遊馬だった。なのに、俺はそれを忘れようとしている。そうならないうちに、俺は。

「シャーク」

 いつの間にか目の前には遊馬がいた。俺は腰のデッキケースに手をやる。何度も遊馬と闘ってきたデッキ。Dゲイザーを取り出す。デュエルディスクを展開する。

「遊馬……俺と、デュエルだ」

「なんでだよ」

「忘れたのかよ。俺は……お前たち吸血鬼の敵だぜ。お前を倒そうとするのは、当たり前だろ」

「そんな状態で、俺に勝てると思ってるのか?」

 遊馬は俺の身体を頭からつま先まで眺めた。その視線に膝が笑い、今にも崩れ落ちそうになる。吸血鬼の前に屈してしまいそうになる。俺の身体は吸血鬼へ隷属したがっている。……それでも、俺は。

「つべこべいってんじゃねえ。さっさとデュエルで勝敗付けようぜ」

「……上司にも言われたんだ。そろそろお前のこと始末して、ナンバーズを手に入れろって。そうしたら名前も貰えるんだって、さ」

「へえ、良かったじゃねぇか、遊馬」

「そうしたら、その遊馬って名前ともお別れだろ」

 遊馬はデュエルディスクを構えた。Dゲイザーをセットしなくても、彼の目は血のような赤色に変化してARヴィジョンとリンクする。今まで俺が見てきた吸血鬼たちと同じように。

 ……このデュエルでの敗北は、遊馬が言うとおりを示す。

 遊馬と別れることになる。

 それでも俺は、僅かでもいい希望を掴みたかった。

 もう一度だけでもいい、太陽に手をのばしたかったんだ。

 

 

 

 膝をついた俺の元に、装備を解いた遊馬が歩み寄る。

「なんでナンバーズを出さなかった」

 手を伸ばすしぐさはナンバーズを回収しようとするもの。だがそれは無駄に終わる。俺はナンバーズを持っていないのだから。

「……仲間に、預けてきたからな」

「……最初から俺に負けるつもりだったのかよ」

 遊馬はすねたように頬を膨らませた。

「不服かよ。だが俺は……勝つつもり、だったぜ」

 それでも俺は遊馬に負けた。遊馬がアストラルにも無断で持ち去った一枚のナンバーズは、吸血鬼のもつ力を受けて、新たな邪悪な力を手に入れていた。No.39 希望皇ホープを持つ吸血鬼。これでもう揺るがないだろう。この吸血鬼は遊馬なんだ。遊馬……だったんだ。

「そっか。でも、俺が勝った」

「ああ」

 遊馬がしゃがむ。俺の肩を掴む。牙が光る。空が薄明るくなっている。夜明けが近いのだ。

「シャーク」

「……ん」

 唇を首筋にふれさせて、遊馬が俺の名前を呼んだ。肌にかかる吐息は

、冷たい。人のぬくもりを、感じられない。

「どうしてだろう……俺、デュエルに勝ったのに……これで一人前の吸血鬼に認められるはずなのに……新しい名前も貰えるのに……なんでだろう。すごく、悲しいんだ……嬉しくなんて、ぜんぜんねぇんだ……なあ、シャーク。どうしてだよ。シャーク」

「遊馬」

 そっと俺は遊馬のことを抱きしめていた。小さな背中。以前遊馬を抱きしめたときと何のかわりもない。けれども、もう、遊馬は……戻ってこない。

「泣くなよ」

「泣いてねぇよ」

 嘘だ。俺の肌の上に遊馬の涙が落ちて濡れて、服の下にまで流れてきているのが分かるんだから。

「お前が泣くの……似あわねぇから。お前には、笑っててほしいから」

 たとえどんな姿になっても。俺は遊馬の笑顔が好きだったから。

「シャーク」

 遊馬が俺をきつく抱きしめた。肩に顔を埋めて。お互いの冷たい身体をきつくきつく抱きしめあって、そして、遊馬と俺は、もう一度顔を会わせることはなかった。

 鋭い痛みが首筋から伝わり身体中を駆けめぐる。それは一瞬で快楽へと変化し、遊馬の背に回された俺の腕はだらりと落ちて垂れ下がる。

「ゆう、ま……」

 永遠のような時間。頬につうと涙がこぼれ落ちていった。俺は。なんで、泣いているんだろう。

 

 

 

 朝日が昇る。遊馬はもう既にいなかった。違う。俺は遊馬に抱えられて、日の当たらない場所へと寝かされた。そこから身体を引きずって、俺はここまで来たのだ。未だだれも登校してきていない学校。俺の気に入りのテラスの上。太陽に一番近く、手が届きそうな場所。だがそれは昼間のことで……朝日はずっとずっと遠かった。フェンスから身を乗り出して、手を伸ばしても遠すぎて届かない。

「ゆうま」

 思い出す。遊馬の泣き顔。遊馬だったものの泣き顔。違う。俺がみたいのはそんなんじゃない。俺がみたいのは。

 未だに流れる涙があまりにも透き通っていて、皮膚を伝う感触は伝わっても、視界が曇ることはなかった。不思議な浮遊感に俺は包まれていた。

 そうして俺は朝日を見ながら、水が低い場所に流れていくことのように理解する。

 俺は遊馬を元に戻せなかったことに涙したわけじゃない。ナンバーズをこの世界を守るとかそういう大義を果たせなかったことに涙したわけでもない。

 ただ、残念だと思ったのだ。

「ゆうま」

 もう二度と、この太陽の眩しい光の中、輝くような遊馬の、俺の大好きな笑顔を誰も見れなくなることが、悲しいと思ったのだ。

 

2013.02.07

「アステリアの淵よりさよならを」の遠回しな続きです。なんで上司は真月。吸血鬼はロマンだー!

Text by hitotonoya.2013
inserted by FC2 system