アラクノフォビアの安息日

 凌牙の周囲には暗い闇が沈み込んでいたが、その頭上には間違いなく輝く眩しい光があった。遥か遠く、ずっとずっと上のほう、手を伸ばしても決して届かない場所にその光はある。それで十分なはずだった。光とはそうあるべきだと凌牙は考えていた。慣れた瞳は闇の中でも鮮明にものを見ることだって出来る。凌牙はそうして闇の中で生きていくことを選んでいた。

 ただ、なんとなく、今日ばかりは気まぐれに、光に向かって手を伸ばしてみたのだ。……やはり凌牙の手は、爪先すらも光に届くことはない。

 否、凌牙は手を伸ばすことができなかった。腕が思う通りに動かない。何かに絡め取られているかのようだった。動かないのは腕や手だけではない。身体じゅうに何かが貼り付いて、絡み付いて、動けない。僅かだけ動いた首を上下左右に揺らして、凌牙は自分の状態を確認する。……ねばつく白い紐状のものが、凌牙の身体に絡み付いて囚えていた。その粘着力は強靭で、いくら凌牙が力を篭めて身体を動かそうとしても、切れる様子も剥がれる様子も全くない。それどころか余計に凌牙の身体のいろんな場所にべたべたとこびりついていく。今の凌牙はまるで蜘蛛の巣に囚えられた哀れで無力な羽虫だ。

「く、も……」

 その生物から連想されたものに、凌牙はどくりと心臓を跳ねさせる。嫌でも思い出してしまう。今日見た信じ難い光景を。空中に張り巡らせた蜘蛛の糸の上に立つ変わり果てた幼馴染の姿を。

 何故彼はあんなふうになってしまったのか。例えばナンバーズの闇の力に操られてしまったのか。もしそうだとするのなら救い出してやらなければならない。彼をかつての、皆の希望であり光だった八雲興司に戻さなければいけない。

 だって八雲に、ナンバーズにつけこまれるような闇は、あってはならないのだから。それは全て、凌牙が背負わなければならないものだから……。

「八雲……っ」

「呼んだかい?」

 切なげにこぼれた名を受け止めてくれたのは、懐かしい声だった。しかしその声からは穏やかな陽光のようだった柔らかさは消え去り、暗く冷たい響きに変質している。

 凌牙の前に現れたのは八雲興司その人だった。不敵に唇の端を持ち上げながら、蜘蛛の巣に囚えられた凌牙を見下ろしている。八雲は凌牙が囚われている糸の上に立っていた。

「八雲っ、これは、お前が」

「そうだよ。ようやく手に入れた、キミを決して逃がさないための力だ」

 愛おしげに張り巡らせた糸を撫で八雲は言う。その手に粘液が付着した様子はなく、糸の上を自在に歩いて凌牙の傍まで来てみせる様は、この巣の主人が彼であることを物語っている。

「覚えているかい凌牙。孤児院での最後の夜に、僕がキミを抱いたとき……キミを逃げないように縛ったはずなのに、キミは朝には縄を抜けて逃げてしまったよね?」

 紡がれる言葉に鍵をかけていた記憶が揺り動かされる。凌牙は開こうとする蓋を閉じるように、首を降る。それが余計に自身の自由が奪われる結果になると知りながら。

「知らない……っ、そんなこと、なかった! それはお前の悪い夢だ」

「夢じゃない」

 凌牙の傍らにしゃがみこんだ八雲がその手を凌牙の首筋へと這わせる。

「夢じゃないんだよ、凌牙。現実にあったことだ。キミはいつも都合の悪いことをなかったことにする。逃げようとする。……だから僕はこの力を手に入れたんだ。キミに現実から逃さないための力を。キミに現実を受け入れさせる力を」

「かっ……!」

 凌牙の首に絡み食い込んでいく八雲の指。窒息死に至るまででは決してないが、酸素を奪い凌牙に苦痛を与えるには十分な力が篭められている。

「目を逸らすなよ凌牙。これが今の……現実の僕だ。キミの妄想の中の僕なんかじゃない」

「や……ぐ、も……どうして……」

「……本当に馬鹿なんだねキミは。いいよ。わからないなら、じっくり教えてあげるよ。といっても、今はまだキミを食べるつもりはないよ。挨拶に来ただけだ」

 するりと八雲の指が凌牙の首から離れていく。けほけほと凌牙は咳き込む。その身体の振動にも、蜘蛛の巣はぴくりとも動かない。

「……お前が、間違いを起こすというなら……俺は、全力でお前を止める。止めてみせる」

「誰にとっての間違いなんだい? それは」

 目を細め、八雲は威勢だけは良い凌牙を嘲笑う。

「今は誰がキミの光なのかな。あの女か? それとも別のやつか? 何故キミはこのナンバーズ大戦に参加する? 何故ナンバーズを抹殺なんてすると決めた?」

「それは……」

「それは?」

「お前が……間違ったことをしようとしてると、瑠那に、聞いたから」

 瑠那とのデュエルの後、八雲の話を聞かなければ、凌牙は彼女に協力することはなかったかもしれない。一度はナンバーズに操られた身なのである。その恐怖もリスクも承知した上で、ただ瑠那の告げた、世界の危機などという曖昧で常人には信じられないような理由だけで動けるほど凌牙はお人好しではなかった。

「へぇ」

 がしりと顎を八雲に掴まれた。その覚えのある衝撃に、感触に、再び鍵をかけた箱の蓋が開きかける。

「……まだ、僕なんだ。そこまで思って貰えるなんて、本当に嬉しいよ。本当に、本当に」

 ぎり、ぎり、と力が篭められる。首を締められた際とはまた違う痛みが凌牙を襲う。だが逃げられない。抵抗もできない。身体は蜘蛛の糸に絡めとられて動けない。

「調教のしがいがある」

 ぞわりと背筋を、身体中を悪寒が奔っていく。笑った八雲の冷たい眼差しが動けない凌牙に深々と突き刺さる。

 八雲は凌牙の頬をするりと撫でると、顔を近づけ、唇に唇を重ねた。ぬるりと湿ったなまあたたかいものが凌牙の唇の上を這い、粘液で濡らし、歯列を割って口の中へと入っていく。舌をも蜘蛛は逃さない。絡み取り、愛撫し、蹂躙する。食事をする準備をするように。

 がたがたと箱の中の黒いものが揺れ蓋を押し開こうとしている。耐え難い恐怖に凌牙は目をきつく瞑る。

「ちがう……」

「違わない」

「八雲じゃない」

「僕だよ」

「こんなの俺の知ってる八雲じゃない」

「ああ、これが現実の僕だ」

「俺がもとに戻さないと」

「キミを現実に戻さないと」

 奔った痛みに凌牙は目を見開く。じんじんと舌先が疼く。かすかに香る鉄の匂い、味。八雲が凌牙の舌を噛んだのだ。

「いっ……!」

 ぬるりと八雲の舌が凌牙の中から出ていく様が見えた。

「さあ凌牙。見てごらん」

 悪戯好きの子どものように、べぇ、と舌を出して凌牙を笑う八雲。その舌の上に乗っている、小さな一匹の蜘蛛の八つの目が、凌牙をぎろりと見つめた。

「ひっ」

 引きつった喉の奥から漏れた息に、口の中がざわざわと揺れる。違う。息が溢れているのではない。舌の上を、裏側を、口の中じゅうの粘膜の上を、歯の上を、何か小さなものが大量に這っている。動いている。

「うぐっ、うっ、えぇっ」

 嗚咽と共に凌牙の口から溢れたのは八雲に注ぎ込まれた唾液などではない。小さな蜘蛛が、大量に凌牙の口から吐き出されたのだ。蜘蛛は凌牙の口内から出た後も、凌牙の肌に細い糸をはりつかせ、口の周りを、首元を、服の上をざわざわと這って行く。

「ああああああああああああああああっ?!」

 信じ難い現象に凌牙は叫ぶ。無数の蜘蛛が凌牙の身体を踏みにじる。服の中に忍び込み、腹の上を歩く。髪の隙間にも糸を張る。這い上がった蜘蛛が耳の穴にまで入っていく。

「あっあああああっ」

 そのおぞましさに、嫌悪感に、不快感に、凌牙は胃液を逆流させる。胃の内容物の量と臭いに頬が膨らみ、耐え切れなくなって吐き出す。ぱたぱたと滴り落ち凌牙を汚すはずだった吐瀉物は、ざわざわと粘液をまとった大量の小蜘蛛が正体だった。

「あっ……あっ、あぁっ」

 再びこみ上げる吐き気。だが何度吐いても凌牙の身体から出てくるのは小さな蜘蛛ばかり。体外に出たそれは再び凌牙の内側に戻ろうと、凌牙の身体中に糸を張り、穴という穴に侵入し、時には皮膚を食い破る。いつの間にか知らぬうちに凌牙の身体の中はすっかり蜘蛛でうめつくされていたのだ。臓器なんてとっくに溶かされて食いつくされているに違いない。からっぽの身体の中にざわざわとうごめいている大量の蜘蛛を思い描いて凌牙はまた蜘蛛を吐く。

「逃げたいか? 逃げられないだろう? でもまだまだだよ凌牙、これはまだ前菜にも辿り着いちゃいない。僕の受けた希望も絶望も全部キミに返してあげるからね。凌牙」

「やっ……ぐ、もっ」

 蜘蛛と糸に塗れた凌牙の顔をかきわけて、八雲は瞼を開かせる。八雲を避けるように蜘蛛は移動して、光が差したように凌牙の瞳に映る。

「たまらないよ。絶望を映す、キミの瞳は本当に綺麗だ」

 開いた上瞼と下瞼を繋ぐように、一匹の蜘蛛がねばつく糸を張ってその上を這って歩いていく。光が粘液で屈折し、ぼやけ、翳る。八雲が今まで見せたことのない、それはそれは楽しそうな笑顔から、凌牙はもう目を逸らすことができない。

 

 

 

「……凌牙、凌牙、しっかりなさい!」

 閉じていた瞼が開いた。

 そのことに真っ先に違和感を覚える。だって凌牙の瞼はもう閉じることが出来ず、それによって開くこともできなくなっていたはずだからだ。どういうことだと辺りを見渡すように首を動かす。今度は自分の身体が思う通りに動いたことに違和感があった。

 頬に触れるのは蜘蛛の糸ではない。瑠那の長髪だ。凌牙を覗きこむのもまた彼女の心配そうな瞳。かたいコンクリートの感触。薄暗いここはどこかの路地裏らしい。

「瑠那……」

「気づいたのね」

 ほっと胸を撫で下ろす瑠那のあたたかな吐息が肌をくすぐる。

「俺は……」

「九十九遊馬とナンバーズハンターのデュエルを見た後、場所を転移してここに来たのだけど……そのときに気絶して、倒れてしまったの」

 瑠那は眉尻を下げた。凌牙の過去を知る彼女は、おおまかにだろうが察しがついているのだろう。

「ショックなのは分かるわ。……でも、凌牙。私たちは、彼とも、戦わなければならない」

「ああ……分かっている」

 身体を支えてくれていた瑠那の手を振りほどき、凌牙は立ち上がろうとする。コンクリートについた指の先に動く、小さな蜘蛛の姿があった。凌牙に危害を加える様子はなく、ただ地面を這っているだけのその蜘蛛を、凌牙は拳を握りしめ、叩き潰す。いきものの潰れた感触すら手に残らないほど小さな蜘蛛だった。ただコンクリートに打ち付けた拳が痛むだけだった。

 凌牙は記憶の黒い箱の中に悪夢をしまい込み、再び鍵を厳重に閉ざしながら誓う。

「八雲が間違いを起こすというなら、俺はそれを止めなければならない」

 

2012.11.22

それでもシャークさんの病気はきっと八雲に負けるまで治らないような気がします。どんなコースを味わわせてくれるのか楽しみ!!

Text by hitotonoya.2012
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