夢も希望もありません

 八雲興司はデュエルが好きだった。

 孤児院での質素な生活の中でデュエルは八雲に希望を与えてくれた。もちろん自由になる小遣いなんてたかが知れているし、使えるカードも寄付されてくる中古のものばかりだ。その中からカードを選び、デッキを構築し、相手に勝つ戦術を練っていくのが楽しかった。工夫と努力のおかげで大会に出ていい成績も残せるようになった。賞金を持って帰れば孤児院の皆は喜んでくれた。新しい文房具や服やおもちゃが買えた。八雲も新しいカードを買えるようになった。そのカードでデッキを強化して、また大会に出て、いい成績を残して。孤児院の年下の子ども達も八雲に憧れるようにデュエルをはじめていった。八雲もまた彼らにデュエルを教えた。この楽しさを共有したかったし、デュエルは親のいない自分たちの境遇を、未来を変えてくれるものだと信じられたのだ。

 デュエルは楽しい。もっとデュエルがしたい。もっと強い相手と闘いたい。そうしてもっと強くなって、大会で優勝して、ゆくゆくはチャンピオンになりたい。そんな気持ちを抱くのはデュエリストなら誰でも同じだろう。

 八雲の孤児院には、神代凌牙という少年がいた。孤児院では唯一八雲と同年代の同性で、人付き合いが苦手なのか、八雲が子ども達相手にデュエルをしているときも近寄ってくることはなかったが、凌牙もまたデュエリストであるということは、カードを愛しそうに見つめる彼の顔を見ればすぐに分かった。きっと彼も素晴らしいデュエリストに違いない。凌牙とデュエルして、切磋琢磨しお互い高めあえるような、そんな関係を築きたかった。なのに凌牙は決して八雲と孤児院の中でデュエルしようとはしなかった。

 

 

 はじめて凌牙と八雲がデュエルをしたのは一緒に出た大会の決勝戦でだった。凌牙の実力を見初めた孤児院の先生が大会への出場を薦めたのだ。決勝まで勝ち上がってきた凌牙に、八雲は胸を躍らせた。自分の目は間違っていなかったのだと。

 八雲は準決勝までの凌牙のデュエルを見ていた。孤児院でひとりでいるときの物憂げな横顔とは打って変わり、まるで水を得た魚のように活き活きとカードを操り相手の喉元に食いつき噛み砕く。その凶暴な、しかし繊細で巧みなデュエルは彼の操るカードが鮫をモチーフとするものが多かったこともあり参加者の間では『シャーク』と渾名されていた。そんな彼と真正面からデュエルが出来ることを八雲は心から喜んだ。デュエルが始まるまでの間、何度もイメージトレーニングを繰り返していた。このカードを出したら凌牙はどう出る。あのカードで処理してくるか、それともこのカードで打ち破るか。ならばこちらはこのカードで返せば。

 そうして始まった決勝戦で、八雲に向けられるはずだった、鋭く研ぎ澄まされた深海の牙のような眼差しは、しかしその輝きを見せることなく閉じられていった。

 デュエルは八雲の勝ちだった。凌牙は体調でも悪かったのだろうか、準決勝までは観客にすぎない八雲まで痺れてしまうような闘志を感じたというのに、決勝ではその闘志はなりを顰め、驚くほどあっけなく凌牙は負けていった。手札も、伏せカードも、彼の手の中には逆転の可能性はたくさん残されていたというのに。

 孤児院に戻れば八雲の優勝を子ども達は両手を挙げて祝ってくれた。その横を逃げるように通り過ぎ、部屋へ消えていく凌牙の姿。その背中を八雲は子ども達の歓声をよそにずっと見つめていた。

 それからの大会でも、凌牙はずっとそうだった。

 決勝で八雲と当たるときに限って、凌牙の瞳はまるで死んだ魚のように翳るのだ。何もかもを諦めたような顔をして闘うのだ。シャークの異名を持つ強豪デュエリスト、神代凌牙。彼は八雲興司の前でだけデュエリストではなくなるのだ。

 八雲が優勝する大会で、凌牙はいつも準優勝。八雲の調子が悪く結果を残せなかったときも、凌牙は決して八雲以上の成績を残さなかった。それが何を意味しているか気づかないほど八雲は馬鹿ではなかった。

「お前はみんなの希望。夢だ」

 それはいつかの大会で、最後の八雲の攻撃の際に、場に残された伏せカードを発動しなかったことを問い詰めたとき、凌牙が呟いた言葉だ。

「俺は所詮影なのさ」

 そうして降り注ぐスポットライトの当たらぬ影へと消えていった凌牙。八雲は悔しくて悔しくて仕方がなかった。

 八雲は凌牙と純粋にデュエルがしたかっただけなのに。同じデュエリストとして。孤児院の仲間として。友達として。

 なのに凌牙は八雲のことを同じ人間だと見てくれていないのだと、そのとき漠然とした絶望がずんと胸の中に重く生まれたのだ。

 どうして。どうして。どうして凌牙はそんなことをする! どうして凌牙は僕自身を見てくれない! 希望だとか夢だとか、そんな曖昧でふわふわとしたものじゃ僕は決して無いというのに。僕はただの人間で、キミと同じで、ただキミと楽しく全力でデュエルがしたいだけなのに。どうしてキミは僕にその権利さえ与えてくれないのか。

 孤児院で凌牙は悪ぶって振舞っていた。子どもたちが言う。凌牙は怖いけど、八雲は優しくて大好きだと。デュエルも八雲のほうが凌牙より強いと。八雲のほうがすごい。八雲はすごい。八雲みたいになりたい。

 そう言われて困惑する八雲を、遠くの窓の向こうから凌牙が見つめている。何かを諦めたような虚ろな目で、しかし満足げに微笑んで。

 その表情に八雲はこみ上げる感情を抑えることはできなかった。きっとその感情は光とは真逆の暗い色をしている。

 

 

 孤児院にはたまに、子どもをひきとりにくる大人たちが訪れることがあった。彼らはそれぞれが様々な事情をもって養子になる子どもを探しに来る。今日来た大人は今までも何回かここに訪れたことがある、恰幅のいい中年の男性だった。孤児院にいろいろな寄付をしてくれているのだと先生が教えてくれた。彼はよく孤児院の子ども達とも遊んでくれて人気があったが、八雲はあまりその男が好きではなかった。

「興司くん、この前のデュエル大会も優勝したんだって? おめでとう。キミは本当に優秀な子だね」

「あ、ありがとう、ございます……」

 優しい言葉に、肩に置かれる手。しかし彼が八雲を見つめる瞳はどこか濁っていて、恐ろしかった。す、と掌が身体にすべらされる。さりげなくだが確実に尻を撫でられる。……この男はいつも八雲にこうして過剰なスキンシップを求めてくるのだ。同性にそんなことをされて、気味悪がらないほど八雲は無垢ではない。ごくりと生唾を飲み込む。恐怖を堪える。耐えなくてはならないのだと言い聞かせて。

「きゃあああぁぁぁ?! 何してるの凌牙くん!」

 にわかに響いた悲鳴に八雲も男も振り返る。発された先は孤児院の庭だ。何かと思えば、凌牙が男の車に落書きをしたらしい。凌牙はそんなことをする歳でも性格でもない。だというのに酷く子どもじみたいたずら。たいそう気に入りの車だったらしく、男は弾けるように八雲から離れて車と凌牙の元に駆けていった。平謝りする先生たち、悪びれずそっぽを向いた凌牙。その様子を怯えて見つめる孤児院の子ども達。凌牙の真意を八雲が知ることになるまでそう時間はかからなかった。

 あの男はそれからも孤児院に来たが、凌牙が車にいたずらをした日から、八雲に執拗にいやらしい目を向けることはなくなった。代わりにあの男が来る日は凌牙が必ず教室からいなくなった。またいたずらをしないように先生たちが部屋で謹慎を命じているのかと思った。だが真実は違った。

 次の日に学校で使う予定の教材が見つからなくて八雲は孤児院の中を探し回っていた。先生は確かに孤児院のどこかにあると言っていたが、なかなか見つからず、人気の少ない物置になっている部屋のほうまで八雲は探すはめになった。子ども達の間では幽霊が出るなんて噂されている場所だ。ふと誰もいないはずなのにがさりと音がして八雲は身構える。耳を澄ませばなにやら話し声みたいなものが聞こえる。古びた扉はかすかに開いていた。

そっと中を覗けばそこにいたのはあの恰幅の良い男と、凌牙だった。悪態をつきながら男が凌牙の手首を締め上げている。助けなければならないと思った。だが次の瞬間に凌牙の口から発された言葉に、八雲は動くことが出来なくなった。

「八雲にこれ以上手出すんじゃねぇ。テメェの大事な大事な車、今度は使い物にできなくしてやる」

「この条件はキミが出してきたんだろう? あれ以上のやんちゃをされては私も困るし……キミの条件も、飲めなくなるよ」

「……ッ」

 苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる凌牙の顔に、男の顔がどんどん近づいていって、そして。

 八雲は耐え切れず逃げ出した。

 その夜、男が帰った後、凌牙が風呂に入るタイミングで八雲も一緒に風呂へ向かった。驚いた顔をした凌牙の身体にはたくさんの傷や痣が出来ていた。

「……どうしたんだよ、それ」

「……ケンカでしくじっただけだ、お前には関係ない」

 そうしてふいとそっぽを向いた凌牙が、あの男に何をされたかなんて簡単に想像できたのだ。

「……八雲、お前は、汚れちゃいけないんだ」

 ぽつりと呟かれた凌牙の言葉に、ふつふつと沸きあがったのは怒りにも似た感情だった。

 時間も遅いせいか、共同の浴場には八雲と凌牙しかいなかった。先に洗い場へ行き、タオルで身体を洗う凌牙の肩を後ろからぐいと掴んで正面を向かせる。濡れた長い紫色の髪がしっとりと頬にはりついている。

 もし、凌牙曰く汚れてはいけない八雲興司が、彼が汚れているとする行為をしたとしたら。凌牙はどうするだろうか。驚くだろうか。失望するだろうか。……希望とか夢ではなくなった、同じ人間としての八雲興司を見てくれるだろうか。

 八雲は凌牙の頬を掴むと唇に唇を重ねようとした。鼻先が触れ合い、もう少しでキスができると思った瞬間に、凌牙の手が伸びて八雲は口を塞がれる。ゆっくりと優しく、ただし明らかな拒絶の意思を籠められて身体をぐいと突き放される。凌牙は自嘲するように言った。

「何ふざけてんだよ。お前らしくない」

「……僕らしいって、なんだよ」

「……俺のことなんて構ってないで、さっさと身体洗って、風呂でて、寝ろよ。明日学校だろ。遅刻したら、皆に笑われちまうぞ」

 凌牙は八雲の問いに答えなかった。沸きあがった感情をくすぶらせたまま、八雲は凌牙に背を向けて、乱暴にたらいを床に叩き付けた。

 

 

 それからも凌牙と八雲の関係は変わることはなかった。

 ずっとずっと凌牙への怒りのような感情を抱えたまま、久しぶりにデュエル大会への出場の話が出た。ハートランドシティデュエル大会。その大会に八雲も凌牙も出ることになった。お互い勝ち進んで、訪れた準決勝。決勝を前にしてふたりが対決することになるのは初めてだった。組み合わせが発表されたとき、八雲は凌牙の顔を見た。そこには見慣れた、デュエリストでなくなった凌牙の顔があった。八雲を相手にさえしない、八雲を映さない虚ろな青い瞳。

 ……いよいよ我慢の限界に達した八雲は準決勝の前に凌牙を呼び止めた。人目をはばからず八雲は叫ぶ。

「全力で来い、凌牙! 僕は……僕の持てる力の全てをぶつけて、キミと闘いたい!」

 対する凌牙はふっと微笑む。始まる前から諦めた顔をして。否、それは諦めですらないのかもしれない。彼は八雲に勝つことを諦めているわけではないのだ。勝てるはずなのに、わざと勝たないのだから。……八雲にとってそれがいかに屈辱的なことか知らないで。

「何言ってやがる。俺が全力出しても、お前に勝てたことなんて一度もないんだから」

 そうして凌牙は八雲の手を振り払っていった。

 デュエルは当たり前のように八雲が勝った。だがそこに勝利の喜びも充足感も何もなかった。あるのは虚しさと悔しさだけ。凌牙は相変わらず闇の中に消えていく。デュエル中も、一度も、八雲の目を見据えることなく。

 そうして胸で長く渦巻いて成長した感情は限界を超え、ついに八雲を衝動のまま突き動かした。凌牙がどうすれば自分を見てくれるか、同じ人間だと認識してくれるか。彼が望まない、希望でも夢でもなんでもない、汚れたことをしてやって、その事実をつきつけてやればいいのだと。八雲は決勝戦での対戦相手の控え室に忍び込み、デッキを盗んだ。こうでもしてやれば凌牙は嫌でも思い知るだろう。失望するだろう。そして初めて気づいてくれるはずだった。八雲興司という人間の存在に。

 慣れない悪事への恐怖に走る八雲の行く先に凌牙が現れたことは、果たして運命のいたずらか。

 凌牙にぶつかってばら撒かれた八雲のものではないデッキ。頭のいい凌牙はすぐにそれが何を意味するか気づいた。どうしてだ、なんでだ、そんな顔を向けた凌牙にどこか安堵さえ覚え、八雲はその場を立ち去った。凌牙自身が八雲の罪を認め、訴えてくれるものだと信じて。身体は羽が生えたように軽かった。抑圧から解放されたような気分だった。これできっと、ようやく凌牙とデュエルができるのだという喜びさえあった。

 

 まさか凌牙が、目の前で見た八雲の罪さえ覆い隠して、罪を被ってしまうなんて思わなかったのだ。

 

 ……不正でデュエルの表舞台を追放された凌牙は孤児院からも出て行った。最後まで八雲を同じ人間として見てくれることはないまま。凌牙から注がれる重圧はなくなったものの、八雲の心には未だ暗い色をした感情が渦巻いたまま。どんなにデュエルで勝っても、大会で優勝をしても、その闇は晴れることなく八雲の中で成長を遂げていく。凌牙を忘れられることなんて出来なかった。何度もデュエルをしたはずなのに、一度もデュエルをすることが出来なかった男。追いかけても追いかけてもするりと八雲の手をかわし逃げていく男。いつか必ず決着をつけてやる。思い知らせてやる。夢も希望も奪って、失望と絶望の中に叩き落して、そのうえでその鋭く獰猛な深海に生きる鮫のような目に焼き付けてやるのだ。八雲興司という一人の人間の姿を。

 

 ただ純粋にデュエルを愛していた少年を変えてしまったのは間違いなく、神代凌牙だった。

 

2012.08.23

一人の純粋なデュエル好きの少年が、デュエル大会の決勝で不正せざるをえない精神状態まで追い詰められて人生狂わされました、って話。

Text by hitotonoya.2012
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