彼が悪魔になった理由

 ごうごうと渦巻く熱波が鼓膜を襲う。遠くで聞こえるバリバリというヘリコプターの音、サイレン、がしゃん、がしゃんと何かが崩れていく音。まさに炎獄の中、俺は気絶した少女を引きずりながら歩いていた。全身が炎に煽られていたが、ずきずきと刺すように痛んだのは右目から頬にかけて。それはどこよりも熱く、何よりも赤い血をだらだらと流していた。それでも安い代償だと思えたのだ。ほぼ無傷でこの少女を、襲い来る炎から守ることができたのだから。

 どうにかして炎の迷宮から脱出口を探そうとしていると、目の前に、まるで火の熱を全く感じていないかのような、仮面の少年がにやりと笑みを浮かべて立っていた。

「トロン……!」

 彼にそう呼べと言われた通りの名を叫ぶ。トロンは表情を変えぬまま、俺をじっと見つめていた。

「どうして、こんなカードを!」

 トロンから渡されたカード、炎獄の祝福。その魔法を発動した瞬間、ARヴィジョンであるはずの炎は実体を持ってデュエルの対戦相手だった少女に襲い掛かったのだ。周囲を巻き込み、灼熱で全てを焼き払うかのように。

 肩で支えたままの少女を一瞥する。だらりと四肢の力は垂れ下がって、すっかり気を失っている。一刻も早く彼女を病院に連れて行かなければならなかったのに。

「さあ、ふたりで一緒に帰ろうか」

 トロンは俺だけを見てそう手を差し出したのだ。

「ふざけんな! この女を置いてけってのか!」

 少女の腕をがっしりと掴みながら激昂する。トロンの言う帰る手段とは、すぐそこの空間に異空間へ続く扉を作って滞在しているホテルの部屋まで戻ることだ。出口の見えない炎の迷宮の中でも、それならば無事に脱出することができる。だがトロンの頭の中には少女の存在がない。

 俺はただこの青髪の少女とデュエルをしろとトロンに指示をされただけなのだ。俺たち一家を壊滅させたDr.フェイカーへの復讐に、それが関係あるとは微塵も思っていなかった。トロンに言われたとおりに少女を呼び出し、デュエルを挑み、そしてトロンに貰った魔法を発動した、それだけなのだ。少女は間違いなく無関係の一般人に過ぎないはずなのだ。いくら復讐のためだからといって、関係ない人間を巻き込み不幸にしていいはずがない。だから俺はこの少女を助けなければならない。

 すっと差し出されたトロンの手が、頬に触れた。

「よくやったね」

 親指が慈しむように熱された頬を撫でていく。両の手で包み込むように。トロンの白い手袋が触れたところから、どくどくと流れて止まらなかった血が消えていく。止まるのではない、消えていくのだ。さらさらと小さな光の粒になって。褒められて、撫でられて、思考回路が麻痺していく。甘い甘い麻薬のようだ。

「君にはまだもう一仕事あるんだ。こんな傷なんて消してしまおう」

 流れる血はトロンが手を翳せばもうすっかり消え去って、ぱっくり裂けた傷口が塞がっていく。トロンの仮面の左目にはめ込まれた巨大な赤い宝石が鏡のようになって、ぼんやりと俺の顔が映る。瞼の直下に横に奔る傷、目から頬にかけて縦に奔る傷、交差して刻まれた十字。ああ、罪の意識が消えていく。

 しっかりと掴んで放さないつもりでいた腕は、細い少女の身体は、いつの間にか焼けた地面に力なく転がっていた。このままではきっと炎の渦に飲み込まれてしまうだろう。そう思うことはできるのに、俺は膝をついて少女に手を差し伸べることができない。包み込むトロンの手を振り払うことなんてできない。ああ俺は、どうして、どうして。

 肉の赤色が薄れていく傷に、大切なものを失くしていくような感覚に陥って、小さく、トロンの手が頬を撫でるのを邪魔しないように口を動かした。

「消さないで……」

 嗄れた声は熱波を吸い込んでいたからだろうか。

「この傷跡は、残しておいてくれ……」

 無関係な少女を巻き込んだことを忘れてはいけない。彼女を見捨てていくことは許されてはいけない。差し伸べたはずの手をあっけなく放してしまった罪を背負わなければならない。

「そこまで言うなら、残そう。でも、こんな傷、言ってくれればいつでも消せるからね。皆が見たら心配させてしまうかもしれないよ」

 黒い点が空間を飲み込むように広がって、銀河を思わせる異空間への扉が開く。さらさらと粒子のようにその中に、トロンに愛されたまま飲み込まれていく。炎獄に残されたのは何の関係もなく何の罪もない一人の少女だけだ。

 

 

 

 小さな頃に父親にカードを貰うのだと約束した。その約束は果たされぬまま、父は帰らぬ人となり、兄とも弟とも引き離された。そうしてようやく家族全員が再会を果たしたとき、変わり果てた父はしかし俺との約束を覚えているかのように一枚のカードを渡してくれた。それはずっと待って待って待ち望んだ時だった。見た目も中身もすっかり変わってしまった父を、ああ、この人はやはり父なのだと思えた時だった。だから俺は何の疑問も抱かずに、はしゃいで、トロンのくれたカードを使ってしまったのだ。

 ぼんやりと虚空を見つめながら、トロンの膝の上に頭をのせて、髪の毛を優しく梳かれる感触に溺れていた。

 ハートランドシティのスタジアムで開催されるデュエルの全国大会。今日がその決勝の日だ。トロンに言われたのはこの大会で必ず優勝してこいということだけ。デュエルの腕前には自信があった俺は、当然実力でここまで勝ち進んできた。それなのに、決勝での対戦相手は、あの炎の中に置き去りにした少女の兄だというのだ。青い髪に深海のような青い瞳。写真を見れば嫌でもあの少女を思い出す。弟よりも年下の、まだ幼い子どもだ。

「控え室でね、君のデッキをばら撒いておくんだ」

 寝物語を聞かせるようにトロンの囁きが頭上から聞こえる。

「どうして」

 トロンの邪魔をしないよう、頭を動かさないまま、疑問をぶつける。

「そんなことしなくたって、俺は勝てる」

「保険だよ、保険。君のデッキを見るか見ないかは、神代凌牙、彼次第だ」

 やわらかく撫でられる感触が心地よくて、どうしてこの大会で優勝することが俺たちの復讐に関係するのか、青髪の兄妹が巻き込まれたのは偶然なのかそうではないのか、何もかもがどうでもよくなっていく。

「そうだ。この決勝でもよく出来たら、今度はカードのたった一枚なんかじゃなくて、キミに新しいデッキをあげよう。モンスターも、魔法も、罠も。モンスター・エクシーズだって、何だって。キミの好きなデッキを僕があげよう。キミのために」

 ああそれはなんて甘美な言葉。そんなことを親に言われて、頑張らない子どもなんていないじゃないか。

 少女があの後どうなったのかは知らない。そのことを対戦相手である兄がどう思っているのかも知らない。血の繋がった妹が傷ついたことをまるで自分のことのように感じているのかもしれない。そんな精神状態の何の関係も、何の罪もない少年に、これから俺は罠を仕掛けるのだ。怨まれるだろう、憎まれるだろう。だがそれも構わない。父が俺に期待するなら、望むなら、何だってしよう。

 くっと頬の筋肉が動いて、それはまるで悪魔のような歪な笑みを俺は浮かべていた。

 ああ、罪の意識が消えていく。

 涙の流れた跡のように、目から頬に奔った背負うべき罪の証だけを残して。

 

2012.06.14

人形になれなかった、人形に憧れた人間の話。

Text by hitotonoya.2012
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