リビングデッドドール

 昏い昏い海の中をずっとずっと沈んでいる。ごぽごぽ、ごぽごぽ、水の流れる音が鼓膜を揺らす。身体の外側は冷たい水に浸かって冷え切って、寒くて寒くて仕方ないのに、身体の内側はマグマが燃え滾るように熱くて熱くて仕方ない。胸が痛い。痛い痛い痛い痛い。真っ赤に焼けた杭が胸の真ん中に刺さっているような、叫ばずにはいられないほどの痛みなのに、重い海水が邪魔をして叫べない。苦しい苦しい苦しい苦しい。たすけてたすけてたすけてたすけて。救いを求める声は真っ暗で広い深海で、誰にも届かず消えていく。頭の中に響く声はふたつ。俺を操ろうとしているトロンの高い声が促す、復讐のため、全てを叶えるためにナンバーズとひとつになれと。俺を乗っ取ろうとしているナンバーズの低い声が誘う、心の闇を解放し、俺とひとつになれと。

「いやだ……いや、だ……」

 そうやって拒絶するたびに、俺を追い詰めるように、どくんと心臓が握りつぶされたような痛みが全身に奔る。もういやだ。どうして俺がこんな目にあわなきゃいけないんだ。痛い痛い痛い痛い。こんなのいやだ。いやだ、いやだ、いやだ。どうしてこんなに痛いんだろう。どうすればこの痛みがなくなるのだろう。全てがかなえられるというのならまずはこの苦しみからなくしてほしい。頭の中で響き続けるふたつの誘いに乗ることができたなら、全ての苦しみから解放されるのだろうか。

「結局お前は全てから逃げ続けてるだけじゃねぇか」

 別の、三人目の声が聞こえて、きつくとじていた瞼をおそるおそる開いた。のたうちまわる俺を見下ろしていたのは赤い瞳。この昏い海の底でその赤は妙にギラついていた。痛みに霞んだ視界の中でその目ははじめIVのものに思えた。けれどこちらに突き刺さる視線の色はIVのものとは色が違った。あいつの目はもっと悲しいほどに生気に溢れて輝いていた。じゃあ他に赤い目をしたやつはと考えれば遊馬の顔が浮かぶ。いやそれもちがう遊馬の瞳はもっとまっすぐであたたかい光に満ちていた。

 ならばこの虚ろで恐ろしく透き通った、まるで人形のそれのような瞳の持ち主は誰なのか。

「いやだ、いやだって、まるでガキみてぇに」

 笑いながらしゃがみこむ影は水圧なんてものともせずにこの海の中を自由に動いている。覚えのある喋り方。乱暴な口調とは裏腹に憐れみさえ秘めた微笑を浮かべるその姿は。

「お、れ……?」

 まるで鏡そこにあるようだった。濃い青の髪も、かおかたちも、背格好も。まるで同じ姿をした神代凌牙が目の前にいたのだ。ただ、目の色だけが違う。俺の目は青色のはずだった。だが俺を覗き込む少年の瞳は気味が悪いほどに真っ赤だ。慰めるように少年は俺に触れる。一番痛くてたまらない胸に。怯えて避けようとしたが身体は動かない。そ、っと彼が撫でると、不思議なことに、痛みがすこし引いたのだ。突然現れた俺と同じ姿をした存在は得体の知れないものだというのに、そのとき俺は、一刻も早くこの無限に増大し続ける痛みから逃げたくて逃げたくて仕方なかったから、ろくに拒絶もできずそれを受け入れることしかしなかった。

「苦しいのか」

 問われて小さくだけれど顎を動かすことができた。

「辛いのか」

 もう一度頷けば、濡れた頬をやわらかく撫でられた。

 おそらく海面のほうを向いて仰向けになっていただろう身体を、赤い目の少年にぎゅっと抱き寄せられる。冷たい水の中では体温は感じられなかったけれど、こわいほどにそれは心地よく、痛みがどんどん引いていった。ようやくまともに呼吸ができるようになる。

「何がそんなに辛いんだ?」

 それでも彼の言う通り、全ての苦しみが消えたわけではない。

「俺に言ってみろ」

 潮流に漂う髪を梳くように撫でられる。

「俺は……今まで、IVに復讐することだけを考えてきた」

 するりと声が出た。まるで地上で話をするように。

「IVに復讐を果たすのが俺の全ての望みだったんだ」

「ああ」

 赤い瞳が俺を見つめる。その瞳から目が離せないまま、俺はするすると喋った。

「でもIVの話はなんなんだ。あいつの言ったことが、IVが妹を、助けたのが本当なら。妹はIVを怨んでないどころか、むしろ」

 言葉が詰まる。

「……IVに勝ったはずなのに、俺が本当に復讐すべき妹の仇は、違った……トロンだった……俺はトロンに復讐するんだ、今度こそ復讐して」

「復讐して?」

「復讐して」

「復讐してお前の苦しみは消えるのか?」

 とん、と胸に手を置かれる。先ほどまでの心地よさは一変して、再び灼熱をねじ込まれるかのような痛みが貫く。

「あああああああああああああああああああああああ!!」

 叫ぶことを許されているだけまだマシだろう。絶叫の中でも少年の言葉ははっきりと聞こえた。

「俺はお前のことなら何でも分かるんだ。俺はお前だからな」

「お前が、俺……?」

「ああそうだ、お前が自分の本当の気持ちから、欲望から、逃げてることを知ってる」

「逃げ……っ、て、る……」

「自分自身を受け入れないから、こんなに苦しいんだ。痛いんだ、辛いんだ」

 切なげに赤い目を細める少年に、自分の本当の気持ちというものを考えなければならない気がした。

 自分の全ては復讐に捧げると決めたのだ、誰への? 妹を傷つけた相手への。IVへ、トロンへ、そして。

 どうして? 何の関係もない妹を巻き込んで、俺からデュエルを奪って、デュエルだけじゃない、家族も、居場所も、何もかも全てを奪いやがって。俺から全部を奪ったやつらに復讐するのだ。ずっと思ってたんだ、どうして俺がこんな目にあわなきゃならないんだって。ずっと憎いと思っていた。あのときデッキをばら撒いたまま席を立った対戦相手を。観葉植物でしか仕切られていない控え室を用意した大会側を。散々に記事を書きたてたマスコミを。掌をかえしていった友人達を。手を差し伸べてくれなかった両親を。

 誰の、ために? 巻き込まれた、妹の、ための、復讐の、はず、なんだ、この、醜い、気持ちは。

「認めろよ」

 全てを知った顔をして赤い目の少年は諭す。

「お前の行動は、IVみたいに、家族のためなんて美しいもんじゃない」

 ぽろり、目尻から小さな水滴が零れてそれは広大な海にとけて消える。妹のため、家族のために全てをなげうって望まぬ行動を俺ができるはずがなかった。真実を知りなお消えない衝動。IVを認めることができない気持ち。やめろと叫んだ遊馬の声をいよいよ無視したのも。ただ俺は勝ちたかった。復讐のために勝つのではなく、勝ってその後の復讐をしたかったのだ。

 俺から全てを奪ったやつらに。

 赤い目の少年の腕に力がこもり、距離がずっと縮まる。流れるはずだった涙の跡をなぞるように唇が落とされる。からっぽだった器の中に水が注がれていく感覚。それは一年前のあの日から待ちわびたもの。

「ずっと誰かにこうして抱きしめて欲しかったんだ……」

 赤い目の少年がまるで自分のことかのように呟く。その言葉は俺の今の気持ちと全く同じ。

「俺がずっとこうしていてやる。ずっと、誰かにこうして欲しいと思ってたんだ……」

 ――でもそれは無理な話なんだよ。だって俺には誰もいないんだから――。

 太陽に別れを告げた今、暗闇の中で一人漂うことしかできないのだ。

「ずっと復讐のために生きてきた」

「そしてこれからも復讐のために生きていく」

 だって誰もいない俺にはそれしか道がないのだ。いくら目を逸らしたくなるような答えでも。

「俺を愛さなかった世界の全てを怨め、憎め、醜い自分を全て受け入れろ」

 鼻先が触れる距離で俺たちは見つめあう。交錯する赤と青にくらりと眩暈がする。

「俺がお前を受け入れる」

「だから」

「お前も俺を受け入れろ」

 どちらのものとも分からなくなった声に、頷く代わりに唇を重ねる。お互いの頭を幼子にそうするように撫でながら、舌を絡ませ、じっくりと永遠ともとれる時間を共有する。呼吸なんて最初から出来ないのだから関係なかった。服はいつのまにか消えていて、俺たちは裸だった。俺は俺を激しく抱いた。俺の首筋に食いちぎるように噛み付いた。決して逃がさないように。しかしそれは痛みを伴わず、むしろじんじんとむずがゆく気持ちがいい。苦しさや辛さなんてちっともない。喜びに勃起した性器をこすりつけあって、放たれた白濁は海の中にすぐにとけて分からなくなってしまう。文字通り俺は俺を受け入れて、きつく抱きしめあいながら、何度も何度も腰を揺らして打ち付けて、俺は俺の中で達した。俺の中に放たれた熱は凄まじく、全ての苦しみを解放するように焼き払っていった。あんなに沈みこんでいた身体が軽くなる。いつの間にかこの海の中で俺は身体の自由を取り戻していた。快楽の余韻のなか、うすい胸板に恋しそうに頬を寄せる。

 青い目の俺は目を見開く。見下ろす赤い瞳はうつろで恐ろしいほどに透き通っていた。

 赤い目の俺からは心臓の鼓動が聞こえなかった。

 驚きに悲鳴をあげかけた唇を唇で塞がれる。とけてひとつになるような濃厚な口付け。消えていく痛み。押し寄せる快楽。もうこのまま何にも悩むことはないのだ。何も考える必要もないのだ。ただひたすらに俺は全てに復讐をすればよいのだ。うっとりと笑みを浮かべると、ゆっくりと手が伸ばされた。赤い目の俺の表情は見えない。とがった爪の先が、眼球に触れる。そして。

 

 

 

 

 

 広く薄暗い豪奢な部屋で、等身大の人形が椅子に腰掛けていた。

 その傍で笑う仮面の少年。その手には細い細い糸が握られていて、先は人形の節々に繋がっている。

 小さなテーブルの上には飲みかけの甘い甘いミルクティーと、深海を思わせる蒼色の美しいドールアイが一揃え、ころんと転がされていた。それは先ほどまで人形のアイホールに填まっていたものだ。仮面の少年はたった今、ドールアイを交換したところなのだ。この世のものとは思えぬ透き通った赤色のドールアイに。うつろに開かれ光を映さぬつくりものの赤は仮面の少年の好きな色だった。この人形のために仕立て上げた服にも着替えさせて、不満だった青のドールアイも赤に交換して。

「さあ、僕だけの操り人形の完成だ」

 復讐の糸に繋がれて動く完璧な人形。

 仮面の少年は部屋の奥を一瞥する。そこには大きなベッドが置かれていて、まるで糸の切れた操り人形のように三人の子どもが寄り添って眠っていた。やはり人間は面倒だ。仮面の少年はそう肩を竦める。三人の子ども達は仮面の少年の人形になろうと必死で糸に絡まろうとしにきてくれたけれど、結局彼らを動かしていたのは復讐の糸ではなく実に人間らしい涙ぐましい感情だった。ちっとも復讐にその身を捧げてはくれなかった。

「その点キミは素晴らしいね」

 からっぽの人形に語りかけても、ぴくりとも動かずただ赤い瞳が虚空を見つめるばかり。

 家族の情なんて必要ない。仮面の少年が欲したものはただただ純粋な復讐心!

 狂ったように仮面の少年は甲高く笑う。

「さあ、復讐劇の幕が上がる」

 両手を広げ、糸を引く。立ち上がった人形の赤い瞳はうつろで恐ろしいほどに透き通ったまま、ただ復讐だけを歌い踊るのだ。

 

2012.06.12

堕ちてる自分×堕ちてない自分の悪堕ちテンプレシチュエーションのつもりです(笑) サンホラの某曲があまりにもトロンさんとシャークさんぽくて影響うけまくりんぐだぜー俺ー!

Text by hitotonoya.2012
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