そして夢の幕引き

 全国大会の決勝の控え室で、ばら撒かれた対戦相手のデッキを覗き見てしまったあの日から、もうどれだけ経っただろうか。不正で失格になって、居場所をなくして、落ちぶれて。不良として好き勝手に暴れて、アンティルールで相手のデッキを奪って。九十九遊馬の大切なペンダントを壊した。ナンバーズなんてわけのわからないものにとりつかれて、デュエルに負けて。遊馬に助けられて、ようやくデュエルと正しく向き合えるようになって、なのに復讐に駆られてWDCに出場して――。

 思い返せばいろいろなことがありすぎた、嵐のように過ぎ去った時間。いつのまにか巻き込まれていた異世界すら股にかける騒動。その全てが終わった今、凌牙はごくありふれた日常に戻っていた。

「凌牙、昨日久々にデッキを組み替えたの。相手してくれる?」

 デッキを手に無邪気に笑う妹は先日ようやく病院から退院し、家に戻ってきた。もうすぐ学校にも復学する。

「ああ、いいぜ」

 凌牙も不器用に笑う。あの事件の前のように、素直な笑顔をまだ浮かべることは難しいけれど、それでも凌牙はようやく取り戻した、焦がれた日常の訪れに満足していた。

「ちょっと待ってろ、デッキとってくるから」

 リビングで、腰掛けた椅子から立ち上がろうとしたとき、ピンポーン、とインターホンの電子音が鳴る。妹が立ち上がろうとするのを目だけで制して、凌牙はインターホンのディスプレイの前に向かった。

 今日誰か来る話は聴いていないし、宅配便なんかも頼んでいないはずだ。こんな夜に、訪問販売か何かだろうか、そう想像しながらディスプレイを起動させる。表示された映像に、凌牙は目を見開いた。

 見慣れてしまった金の前髪に逆立てた赤い後ろ髪は凌牙の記憶に刻み込まれたままの姿。褐色の肌に輝く赤い瞳は穏やかな色を宿している。右頬に刻まれているのは痛々しい十字の傷跡。

 そこには今は極東チャンピオンの座から退いて、表舞台から姿を消したはずの、IVの姿が映っていたのだ。

「貴女が退院したときいて、改めて謝りたいと思って」

 リビングに通されたIVがそんなことを言いながら、コーヒーを淹れてきた妹に実に真摯に向き合う。頭を深く下げ、かすれた声で謝罪の言葉を口にする。

「あのときは本当にすまなかった。俺のせいで、君の日常を奪ってしまった」

「そんな、謝らないで下さい」

 妹はふるりと長い髪を揺らし首を横に振る。

「あのとき貴方は私を助けてくれたの、しっかり覚えてるから。私を庇って、たくさん血をだして……傷、残ってしまったのね。私の方こそごめんなさい。ほんとうに、ありがとう」

 涙ぐみながら妹はIVを許す。許す、許さないの次元ですらないのかもしれない。彼女はきっと今まで一度たりともIVのことを恨んだことはなかったのだろう。

「凌牙」

 振り返って、IVは今度は凌牙の名を呼んできた。ぎくりと肩が震える。優しい、というより弱気な、そして後悔に溢れた響きの声が凌牙の鼓膜を揺らしていく。

「お前にも本当に迷惑をかけた。俺たち家族の……いや、俺のせいだ。お前にも、しっかり謝りたい。お前はきっと俺を許してはくれないだろうが」

 俯いて、前髪の間から覗く赤い瞳に睫の影を落とすIVを見て、凌牙は胸が締め付けられるような気持ちになった。唾を飲み込み、妹を見る。

「……少し、ふたりきりにしてくれ」

 あのWDCからの事件の仔細を凌牙は妹には話していない。終わったことへの心配をかけたくないからという理由だった。凌牙の言葉に、妹は頷くとリビングを出た。階段を昇る音が聞こえる。彼女の部屋に戻ったのだろう。しんと静まり返ったリビングで、座るIVの目の前に凌牙は立つ。

「……本当に、お前には申し訳ないことばかりした。俺がお前にしたことはきっと取り返しがつかないことばかりだろう。お前がどれだけ苦しんだか俺にははっきりはわからない。だが今でもあのときのお前の顔を覚えている。よく考えればお前はIIIよりも年下なんだもんな……辛かったに決まってるよな。すまん、謝って許されるようなことじゃないとは思ってる。だけどこれは俺の自己満足なんだ。それだけは許して、聞いて欲しい。俺を恨み続けてくれて構わないから」

「気持ち悪い」

 自然と開いた口から出た言葉は酷いものだった。

 IVが顔を上げる。瞳孔を少しだけ小さくして、驚いたような顔をしている。まるで小動物のようなそんなしぐさに、凌牙は更にまくしたてた。

「気持ち悪いんだよ、なんだよ、止めろよそんな喋り方! 弱気な言葉! いつもみたいに俺を馬鹿にしたような軽口言ってみろよ! あのムカつく声でムカつく笑顔浮かべてみろよ!! IV!! ふざけてんじゃねぇぞ!!」

 襟を掴んでまくしたてる。だがIVは困ったように眉を下げて、苦笑いを浮かべるのだ。

「……すまなかった、凌牙。俺のせいで、お前はそんなに傷ついていたんだな。……当然だよな」

 自虐すら含んだ謝罪しか口にせずに。

 凌牙の手はIVの襟を掴んだまま震えた。IVの手はだらりと垂れ下がったまま、抵抗の意思など微塵も見せない。全てを受け入れるとばかりに澄みきった赤い瞳は凌牙の知る色をしていない。

「ああそうだよその通りだよ全部お前のせいだよ!!」

 響き渡る罵声が妹のいる二階にまで届いているだろうに、凌牙は抑えることができなかった。たっぷりの憎しみを籠めて睨みつける。その顔には好きにしていいんだぞ、と書いてあるように見えた。殴るなり蹴るなり、煮るなり焼くなり気の済むまでご自由に。

「俺がテメェにされたこと全部倍にして返してやる……!」

 ぐん、と手を横に凪げばがたんと音を立てて椅子が倒れ、IVの身体も一緒にカーペットの敷かれた床に倒れこむ。そのまま彼の身体の上に馬乗りになり、前髪を掴みあげて見下ろしてやる。

 脳裏に蘇る記憶は、全国大会の決勝の後、今の中学校に転校する前までのことだ。世間から受けた誹謗中傷に居場所を失くしていた凌牙を優しく庇ってくれたのは、対戦相手のIVだった。優しい言葉とあたたかな抱擁を与えてくれた。そうして、IVをどんどん好きになっていったときに、彼はいきなり凌牙をこうして乱暴に床に組み敷いて、見たことがなかったような獰猛な顔をして、冷たく見下して、乱暴に抱いたのだ。痛かった。苦しかった。裏切られたような気持ちでいっぱいだった。それでも凌牙はIVから逃げることができずに何度も何度も抱かれて、そして、玩具に飽きたかのようにある日突然捨てられたのだ。

 倒れたIVの服の前をぶちぶちと引き裂くように開く。晒された焼けた肌は前よりも細くなったような気さえする。首筋に噛み付くように唇をつける。歯を立てて、わざと痛がらせるようにしたはずなのにIVは小さく息を詰まらせるだけで悲鳴のひとつもあげない。肌に爪を立てて引っかいても同じだ。ベルトに手をかける。ズボンを脱がせようとして、しかし手が震えてうまくバックルを外せない。随分と長い時間が経った気がする。ただ大人しく、凌牙の行動をIVは見守っているだけだった。ようやくバックルが外れて、しゅるりとベルトを抜く。ふと見上げたIVの表情は、ただただ穏やかで、静かな水面のようで、凌牙は恐怖すら抱いたのだ。

「あ、ああ」

 情けない声が出たのは凌牙の喉からだ。脱がせかけのIVの服を両手で縋るように掴む。IVは何もしない。凌牙に触れない。何も言わない。ぽたり、ぽたりと水滴が落ちていく。IVの瞳を見るのが怖くて、引っ掻いた痕が赤く浮いた胸に顔をうずめる。

「……嫌がれよ」

 擦れた声。いくら待っても続く言葉は返ってこない。

「いつもみたいに汚ねぇ言葉使って、俺を散々罵りながら、自分勝手なエロいこと言いながら、俺を滅茶苦茶に犯せよ。抱いてくれよ。なあ。IV、頼むから、抱いてくれよ……抱けよぉ……!」

 ぼろぼろと涙が零れる。洟を啜る音さえ混じる。凌牙の懇願に、ついにIVの手が、投げ出された床の上から動く。

「……っ」

 そして凌牙の頭に優しく置かれ、ゆっくりと髪を撫でたのだ。

「……ごめんな凌牙。俺のせいで」

 それは慈悲に満ちた残酷な言葉。

「あ、ああ……うあああああ……!」

 凌牙は崩れ落ちるように声をあげて泣いた。IVの肌が涙で濡れていく。凌牙の顔ももうぐちゃぐちゃだ。

「なんでだよ……なんでだよ、全部、全部、お前のせいなのに……! 俺の身体、もう後戻りできないくらい滅茶苦茶になってるのに……尻の穴につっこまれて喘いじまうようになったのも、男に弄られてしゃぶられて勃っちまうようになったのも、乳首弄くられて気持ちよくなっちまうようになったのも、全部全部全部お前のせいで、こんな身体になっちまったのに!! 全部お前は不本意で、そんな気なんて全然なかったのに、やってたのかよ!! ふざけんなよ!!」

 自分でもおかしなことを言っていると分かっている。でもこれは全て真実なのだ。凌牙の身体はあのときIVによって開発された。何も知らなかった身体に男の味を叩き込まれた。もちろん怖かったし、騙されたと感じてIVを恨みもした。それでも、凌牙は居場所を与えてくれたIVを憎みきれなかったのだ。凌牙を抱くときのIVの活き活きと野性味に溢れ獰猛に輝く瞳と、素肌に、そして身体の内側にまでぶつけられる純粋な欲望に、凌牙は喜びを感じ満たされていたのだから。

「……だからもう」

 低い声が響く。それは聞きなれたIVの声ではない。凌牙の知らないIVの声。

「お前にひどいことは二度としたくないんだ」

 もうどうすればいいのか分からなくなって、凌牙はそのまま家を飛び出してしまった。

 夜の街を歩くのは慣れていた。IVに捨てられた後も同じように彷徨ったのだ。変わってしまった身体をどうすることもできなくて、他人の熱を求めて、何度も何度も、繰り返して。

 今まさにそのときと同じ気持ちを凌牙は味わっていた。久々に触れたIVの肌に、欲情してしまったのだ。あのまま凌牙は本当に抱かれたかった。IVの意地悪な視線で見つめられてそれだけで犯された気分になって、高揚感のまま身体をもIVの思うまま欲望のままに犯される。あの瞳は、凌牙を求める眼差しは、与えられる狂気のような熱は、本物だと思っていたのに。信じていたのに。たとえ捨てられたときでも、その直前までは凌牙は間違いなくIVを満足させていて、彼の居場所になれていたと思っていたのに。

 全ては凌牙にとって都合のいい思い込みでしかなく、間違いだったのだ。

 IVはとんだ役者だ。あんな顔をしながら、あんな言葉を吐きながら、ずっとずっと哀れな凌牙と彼自身に負い目を感じていたというのだ。狂っていたのは、異常だったのは凌牙だけ。こんなどうしようもない熱を、欲望を、男に抱いてしまうのは凌牙ただひとりなのだ。

「う……うっ……」

 重い足取りで路地裏を歩く。繁華街より少し離れた、ネオンサインの明滅する通り。そこにはどんな人間がたむろしているか凌牙はよく知っていた。もう誰でもいいから手ひどく抱いてぼろぼろに壊して欲しかった。滾る熱を抑えるにはそれしか方法を知らない。身体のあちこちが疼いて仕方ない。今すぐ裸になってしまいたいとすら思っている。

「ガキがこんなとこにいて、ここがどういう場所だか分かってるんだろうな?」

 いつの間にかいたガラの悪そうな男に肩をつかまれる。凌牙はくっと唇の端をつりあげて誘うように笑ってみせた。

「ああ……」

 いくら出す? そう尋ねて、媚びるように腕を絡ませるつもりだったのだ。

 一枚のカードが二人の間の足元に鋭利に突き刺さるまでは。

「なんだぁ?!」

 男が大きな声をあげる。建物の影に隠れていたらしい人影がうごく。

「……その子の先約は私が貰ってましてねぇ。手を出さないでくれますか?」

 ぎらりと光った、赤い瞳。穏やかな口調ながら殺気に満ちた威嚇する声。

「それとも私が彼に払った百万を、貴方は今すぐ払えるんですかね?」

 ……IVの脅迫に、男は凌牙の手を乱暴に払うとそそくさと立ち去っていった。

「IV……」

「凌牙」

 声が変わる。優しい声に。先ほどまでの声色に凌牙は懐かしさと愛しさを覚えた。

「すまない、凌牙」

 手を引かれる。IVの服は前はきちんと止められていたが、まだ乱れたままで、あの後すぐに凌牙を追いかけてきたことが分かる。街灯のついた大通りに出る。もう安心だとばかりにIVは足を止めて、凌牙の肩を抱く。

「俺のせいだって分かってる、だが、せめてお前自身は大切にしてくれ」

 泣きそうな瞳で、心の底から凌牙を心配して、IVはそんなことを言っているのだ。

 それが痛いほど伝わるからこそ、凌牙は辛くて辛くて仕方がなかった。行き場を失った熱と、感情を、身体の奥底へ沈みこませるよりなかった。

 

 

 あれからIVの話を妹からよく聞くようになった。メールを交換したり、実際に会って話したりしているらしい。

「IVさんったらいっつも真っ先に凌牙はどうだ、凌牙はどうした、ってそんなことばっかり聞いてくるの。私より凌牙の方が好きみたいにさ!」

「それはないだろ」

 冗談めかして言う妹に、凌牙は苦笑する。

「ねえ凌牙、あのさ」

 ソファに座る凌牙の隣に寄り添い、妹はDゲイザーを開く。

「その……たぶん、ばれてると思うけど」

「……ああ」

 投影されたヴィジョンは、今日彼女が行ったテーマパークでの写真だ。楽しそうに笑う妹と、その隣に、同じ笑顔を浮かべるIVの姿がある。

「私、IVさんが好きで、その、今日、話して……つきあうことにしたの」

「ああ」

 写真の中のふたりはそれは本当に幸せそうで、お互いの残した傷跡の責任だとか、そういう同情や憐れみで浮かべる笑顔ではなかった。何もかもから解放された、憑き物が落ちたような顔。それが本当の彼の顔なのだろうと凌牙は知る。言葉が出ない。

「いいかな」

「どうして俺に聞くんだ?」

「なんとなく、聞かなきゃいけない気がして」

「……馬鹿、こんなにいい顔してんのに、反対するわけないだろ。上手くいくといいな」

「うん。……ありがとう、凌牙」

 花が咲いたような妹の笑顔は、間違いなく待ち望んだもののはずなのに。全てに変えても取り戻そうと誓ったもののはずなのに。

 胸にぽっかりと穴が開いたような感覚に、凌牙は涙を流すこともできなかった。

「あいつにもしっかり伝えといてくれ。俺は大丈夫だから、責任持ってお前を幸せにしろって言ってたって、な」

 

2012.06.06

きれいなIVさん(ノンケ)←シャークさんの片思いに萌えてしまったどういうことだ…シャークさんには幸せになってほしいです、こんなもん書いといてなんですが(毎回)

Text by hitotonoya.2012
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