ただでさえ狭い個室は、先ほどまでの事象を思い出して余計に窮屈に感じられ、このまま押し潰されてしまうのではないかと錯覚してしまうほどだった。座り込んで、深く深く溜め息を吐く。唇から吐き出される息はいやに温く、湿っている。身体が落ち着いてくれる気など微塵もしなかった。あの紅蓮の色をした蛇が、肌に牙を突き刺し、そこから性質の悪い毒を注ぎ込んでくれたのではないかとさえ思う。そして今やその毒素は完全に脳まで回り、ジャックの理性をじわじわと奪っていく。性欲に支配される。窮屈なばかりのズボンを下ろして、手が伸びる先は己の性器だ。先の行為を嫌悪しながら、しかしそうしてしまう、そして止められない己の欲望にジャックは眉を顰めた。触れるだけでなんとも言いがたい快感が奔る。やわやわと握るばかりだった指先の動きが次第に早まる。普段は堪えられるはずの息遣いや声が恥ずかしげもなく漏れていく。
「はっ、はぁっ……んっ、くぅ……」
甘ったるい声は到底自分のものとは思えない。部屋では、口を塞がれていた上遊星の幻を見せられた動揺があったから良かったものの、この狭い個室でひとりきりでは、嫌でも意識してしまう。――そう考えて、思い出してしまったのだ、遊星の幻を。ジャックは首を横に振る。分かっているのだ、あれは遊星では断じてないと。悪魔の見せた幻影に過ぎぬのだと。それなのに身体の芯に炎が燃え滾り続けているかのように熱が沸くのは何故だろう。遊星の姿をとった紅蓮の悪魔が割り開いた箇所がひくひくと疼き出すのは何故だろう。矢張りあの蛇の呪わしい毒に蝕まれてしまったとでもいうのだろうか。
性器に絡み付いていないほうの指がおそるおそるうしろに伸びた。尻の割れ目を見つけると、迷わず指を差込み、入り口の皺を撫でて感触を確かめる。挿入を期待してか腹の奥が恋しそうにきゅうと疼く。
「あー……、あっ」
――遊星。
快感に細められていた目が見開かれる。
その名を声に出しそうになっていたことに気付く。襲い来る途方もない罪悪感。――だが今はどうだろう。そんなものよりも、身体じゅうに染み渡った毒の齎す熱がジャックの身体を支配していた。幼い頃からともに生きてきた男を想起する罪悪感など熱が全て飲み込んでしまう。遊星の幻がそうしたように、入り口をつつく。ジャックは身を捩る。乾いたままの指ではいけない。あの遊星の指はひんやりと濡れていた。代替するものを探す余裕などなく、最奥をつついたはずのそこをジャックは躊躇いもなく口に含み、しゃぶり、涎で懸命なまでに濡らしていく。
おかしい。こんなの、普通ではない。普通であるはずがない。
僅かに残った理性が叫んでも身体は言うことをきかずどんどんと行為を先へと進めていく。ただ達せないまま張り詰めていたものを解放できればジャックは良かったはずなのに、何故こんな場所へと指を埋めているのだろうか。性器への刺激だけでは足りないと身体が疼くのだろうか。前では性器を弄くりながら、後ろではぐちゅぐちゅと自身の唾液に塗れた指を奥へと沈め掻き回す。貫く痛みは熱毒に覆い隠され曖昧になる。熱いのだ。まるで身体が紅蓮の炎に焼かれているかのように。水が欲しい。海の中へと沈みたい。深い青色をした、冷たい海が欲しい。それは、そうだ、あの瞳のような色をしている。
「ゆうせ、い」
一度その言葉を紡いでしまえば、もう今までの自制などまるで意味を持たなかった。
瞼を閉じれば、深い青色が広がる。紅蓮の色がかくれて消える。ジャックの指はその瞬間遊星のものになる。目隠しなど必要が無かった。
「ゆうせい……ゆうせいっ」
あれほど否定したはずのことを、ジャックは無我夢中になって行っていた。遊星の幻が見せた笑みが、彼の囁いた毒を含んだ蜜のように甘い言葉が、今ではとても心地良く感じられる。否、前からずっと、心地良かったのだ。ジャックは星の見えない夜よりも前からずっと、遊星に愛されたいと望んでいたのだ。ただそれが性行為を伴ってだとは気付いていなかったのだ。そして、不動遊星という存在が、こんな行為をするはずがないと、知っているはずがないと願っていたからだ。
遊星はオレのように穢れてなどいない。遊星は高潔な男なのだと。ジャックはそう信じていた。そうであるようにずっと守ってきた。いつの間にか、ジャック・アトラス自身が最も不動遊星を穢していたとしても。
「ゆうせ、ゆうせぇっ」
背徳的な行為が逆に熱を煽る。穢してはいけない男を穢す。まるで人間から畜生に堕ちていくような行為は快感すら伴いジャックの自慰を促す。今ではもう罪悪感さえ快楽に変わる。悪魔を退けたときに勇ましい言葉を紡いだ口からはもう、情欲にまみれた喘ぎとあの甘い幻の男の名しか紡がれない。
「あっ、ああっ」
高まりをみせた熱がようやく解放されようとしたとき、あんなにも求めたつめたい海が目の前にあった。
「………っ!!」
ジャックは息が詰まった。性器を弄くり、本来は挿れるべきでは決してありえない場所に指を突っ込み、快感に身悶えている男の姿がその水面に映っていたからだ。海の主は開け放った扉から一歩だけこちらの世界へ足を踏み入れてジャックを見下ろしていた。ひどく冷たい色の水面だった。
「ゆ……せ……」
頭の中が真っ白になった。これも悪魔の見せる幻なのだろうか。そうであって欲しいと願った。
「……ジャック」
名前を呼ばれて、身体に篭った熱がほんの僅かに引いた。覆い隠されていた理性がようやく姿を現す。深い海のような青い目の男が――不動遊星が今ジャックの目の前にいる理由は何故どうしてなどと考えずとも分かる。あんなに無遠慮に、恥じらいも無く上擦った声で名前を連呼していたのだ。ただでさえジャックの様子をいぶかしんでいた、そして他人を守ることに自己を犠牲にすることを省みない男が捨て置いてくれるはずがないのだ。遊星は性に疎いだろう。子供の頃からずっと機械弄りと決闘ばかりしていた。下品なことなどしなかった。だから純粋に友を心配してきてくれたのだろう。なのにその信頼を裏切って、ジャックは遊星の前に自慰を晒すことになってしまって――。
口はぱくぱくと、溺れた魚のように動くばかりで声が出せない。言い訳の言葉のひとつも見つからない。見下ろす遊星の視線からも逃れることができない。一瞬がとてつもなく長い時間に感じられた。そして気付くと手首に痛みが奔っていた。何かに握られたような痛みだ。爪が肌に食い込むほどに強く、遊星がジャックの手首を掴んでいた。
何をされるか分からない恐怖に全身が支配され、指先ががたがたと震える。至近距離に見える水面が鏡のように穢れた己の姿を映す。これが今遊星が見ているものなのかと考えるとぞっと背筋が寒くなる。遊星の眉が苦しそうに顰められる。当然だろうと思う。諦観と絶望にまみれジャックはゆっくりと瞼を閉じた。
――ジャック、あいしてる。
悪魔の声が聞こえる。不規則な生活が続いているためかかさついた唇。押し付けられる。
唇に優しく重なった何かの感触が、あまりにもあのときのものにそっくりで心臓が掴まれたような衝撃を受ける。
嘘だありえないこんなこと何故どうして
ジャックが驚いている隙を見逃さず、舌が重ねられた唇を割り侵入を果たす。不慣れそうな、不器用な動きはまるで悪魔の幻影とは似ておらず、ジャックは歯を立てることなどできなかった。
到底信じられない、信じたくない出来事が起こっている。けれどもそれを夢だと幻だと切って捨てることが出来ないのは、ジャック・アトラスが、不動遊星という男を見誤るわけがないからだ。
呼吸が出来ないほど深く深く貪るように口付けられて、唇が解放されたときジャックはまず真っ先に咳き込んだ。脱力し倒れそうになる身体を遊星が支えてくれる。涎が顎を伝って落ちていく。おそるおそる見上げれば、遊星の蒼い瞳がジャックを真正面から見つめ続けていた。
「ジャック」
低い声が耳元で名を呼ぶ。ぞくりと背筋が粟立ち、身体の芯に再び炎が灯される音が聞こえた。間違いなくそれは遊星の声だった。
そっと遊星の手が空気に晒されたままだったジャックの股間に伸び、勃起したままの性器に触れる。手袋もしていない、遊星の肌が直接触れる。その行為は鋭利な槍で刺されたような罪悪感を伴ってジャックを突き刺した。
「さわるなっ、遊星、汚れるっ」
「構わない」
振り払おうとした手をがっちりと掴まれて、ジャックは座った姿勢のまま押さえ込まれてしまう。相当の体格差があるというのにものともしない遊星の馬鹿力と護身術の腕に関してここまで憎たらしく思ったことははじめてだった。
「お前はオレが、お前の名を呼びながら何をしていたか知っているのか!」
半ば自暴自棄になってジャックは叫ぶ。遊星は瞬き一つせず、ジャックを見つめる。
「……知っている」
ゆっくりとした唇の動きにジャックの目は見開かれる。そんな答えは分かっている。殆ど同じ環境で育ってきた、ひとつしか歳が違わない遊星が、知らないはずがないのだ。股間に当てられた掌が性器を包み込み、やわやわと動く。快楽を引き出すように。慈しみさえ籠められているかのように。
「俺は……お前が思っているより、子どもじゃない」
そんなのはオレが一番知っている、とジャックは言いたかった。しかし声が出ない。咽喉から出そうと思った言葉は途中で詰まり、意味不明の喘ぎが情けなく零されるだけだ。
「ジャック」
縋るように遊星の服を掴むジャックの身体を支えながら、遊星は低く呟く。吐息がやたら艶めいているのはこの小さく狭い場所に篭った熱気のせいだろうか。
「くっ、あぁっ、ゆうせ、だめだ、放せ、はなれろぉっ……!!」
待ち望んだ快感が直に与えられているという現実に耐え切れず、ちかちかと視界が明滅する。何を言っても遊星はジャックから離れようとはしない。遊星はきっとジャックが本心ではそれを望んでいないことに気がついているのだ。遊星は自分よりもずっと頭の良い男だとジャックは思っている。
ジャックが遊星の掌の中に白濁した精液を吐き出してしまうのに、それほど時間はかからなかった。
「あ……、あぁ……」
放心したように声を漏らすジャックの視線は遊星の掌を捉えていた。べっとりと遊星の肌にこびりつき白く汚している己の精液を見て、ただ快楽に浸っていられるわけがない。視線に気付いたのか、遊星がちらりと彼自身の掌を見る。その中にこびりついた精液を見られることに、ジャックは肩を強張らせた。だが遊星はたいしたことなさそうにそれを見ると、ぺろりと舌を出して舐めてしまう。
「苦いな」
苦笑した遊星はあまりにもジャックの知る遊星そのもので、眦に涙の粒が形作られる。身体は未だ熱い。緋い目をした遊星の幻が、蒼い目の遊星に重なる。緋い目の遊星はこちらを嘲笑うかのように唇を吊り上げている。そんな顔を遊星はしない。
「……ジャック」
遊星にそっと抱きしめられる。嗅ぎなれたオイルのにおいがする。遊星のにおいだ。
「すまない、いきなりこんなことをして」
謝るくらいならはじめからしなければいいというのに、このお人良しが。
遊星はジャックを抱きしめながら耳元で経緯を語る。廊下ですれ違った後にやはり様子がおかしいと出てくるまで待とうとしたこと。扉の奥から聞こえてきた苦しそうに名前を呼ぶ声に驚いたこと。まさかその中で自慰が行われているなどと思いもしなかったこと。その全てがジャックの頭の中を通り抜けていく。あの途方も無い熱が再び身体の内側で渦を巻き始めている。後悔と自己嫌悪と罪悪感が焼き尽くされてしまう。
「……まだ、つらいのか?」
遊星はいつだってそうだった。仲間の異変には誰よりも先に気付いた。孤児院に居たときに風邪を引いて、未だ治っていないのにベッドから飛び出そうとしたジャックの手を引っ張って、彼本人が眠りこけるまで一緒に居てくれたときと同じ台詞だ。その後遊星にジャックは風邪をうつしてしまった。それでも遊星は笑っていた。ジャックの風邪が治ったことを喜んでいた。
そんな遊星を、オレは。
「――ひっ」
背中に回されていた手がいつの間にか下の方へと降りていた。先ほどまでジャックの指をくわえ込んでいた場所に、遊星の指先が触れた。
「ひくひくしてる」
挿れて欲しいのかと問いかけられたときにはもう指先はその内側へと入っていた。湿った感触がしたのはジャック自身が直前まで指を入れていたからか、それとも遊星の手に吐き出されたジャックの精液を潤滑油代わりに使ったのか。ぐちゅぐちゅとかき回される痛みにぽろぽろと涙が零れて遊星のシャツを濡らす。
「あっ、ああーっ!」
拒めない。身体が快楽に身悶える。そして分かってしまう。遊星の身体が密着している。彼の股間が触れている場所があつい。かたい。勃起している。遊星までもがこの狂った熱に犯されてしまっている。焦がされたからだを冷やそうと身を投げた海の中もまた炎に包まれていたのだ。蒼い炎は緋い炎よりも温度が高いのだという。
「ジャック。ジャック……ずっと前からお前をこうしたいと思っていた」
遊星の囁きが甘く脳を溶かしていく。まさかお互いが同じ禁じられた感情を抱いているとは思わず歓喜にこころもからだもうちふるえてしまう。ぐちぐちと内側を広げる動きがだんだんと落ち着きを欠いていく。腰が揺れる。求めている。高まるばかりの熱はジャックの頭からつま先まで全てを飲み込んでいく。
「ゆ……せい、ゆうせい」
くっと唇の端が釣りあがった。脚にこすり付けられているそこへとゆっくりと手を伸ばす。下から撫で上げるように触れれば、遊星がうしろから指を抜いた。抜かれる快感に身を震わせながら、ジャックはうっそりと紫色の目を細める。
「欲しい……遊星。お前が……。挿れてくれ。犯してくれ」
求めるように手を伸ばす。ごくりと遊星の喉が動いたのが見えた。深い蒼の瞳がすぐそこにある。手を伸ばせばずぶずぶと奥へ飲み込まれてしまいそうな蒼。その蒼の中に二点、ぽつりぽつりと星のように緋色が光っていた。再び唇が重なる直前に、弧を描いた唇から自分のものとは思えない声が紡がれるのが聞こえた。
『遊星、あいしている』
遊星の首に蛇のように腕が絡まる。現実なのか夢なのか、触れているのは誰と誰の皮膚なのかすらジャックには分からない。全てが煙のように曖昧に解けていく。
おちていく。ふかいふかいならくのそこへ。蒼と緋が混ざり合った灼熱に焼かれていく。その闇の一番したでは、金色の眼をぎらつかせた紅蓮の悪魔が口をあけて待っている。おれからなにもかもをうばうそのときをにたつきながら待っている。
遊ジャにしようと思ったら何故かこんなことに…どうしてこうなった…私は利用されていたのか!(ボマーさん風に)。…すみません、紅蓮の悪魔の仕業でございます。
Text by hitotonoya.2010