今日もうっかり、Dホイールを長く走らせすぎてしまった。
風馬走一はセキュリティの一員でありながら、純粋なDホイーラーとしての一面も持ち合わせていた。決闘を、犯罪者を拘束するための手段とだけしか考えていない者もセキュリティには少なからず居る。だが風馬は、決闘が、ライディングデュエルが心から好きだった。だからDホイールを走らせているだけで幸せで、いつも巡視の時間を過ぎてもハイウェイから降りることをなかなかしなかった。――もちろん、何よりも優先すべきなのは、市民の安全だということを風馬は知っている。今日の勤務が遅くなったのは、決して風馬の個人的趣味だけが原因ではない。WRGPの最中に突如発生した大規模なテロともいえるDホイーラー襲撃事件、そして異常気象による災害。それに対する市民からの抗議への対応、故障したハイウェイ、デュエルレーンのトラブルの解決に当たっていた時間も充分に長かった。
そんなわけで、セキュリティ本部を出たのは定時よりも随分遅い時間になってしまった。本部にほど近い場所にある平凡なマンションの一室が、風馬の自宅だった。自販機で買った缶コーヒーを片手に、オートロックで施錠されたエントランスに目をやれば、やたらと目立つ長身の男が立っていた。軽く逆立てた金髪に、白のライディングスーツ。遠目から見ても凛々しい紫色の瞳が、風馬をじっと捉えている。
「ジャック」
「風馬」
名前を呼べば、彼は背中をもたれ掛からせていた柱から離れ、風馬の元へ一歩ばかり足を踏み出してきた。
「どうして……」
いつからここに、と問おうとした口を風馬は噤む。ジャックのかたちの良い眉が、僅かだが、どこか不安そうに下がっていたのが見えたのだ。風馬の知るジャックは滅多なことでそんな表情を浮かべない。きっと何かあったのだろうと思い、風馬はそのままジャックを部屋へと案内した。
以前ジャックを自宅に招いたことがあったので、風馬はジャックがマンションまで来たことには驚かなかった。ただ、オートロックのせいで随分と外で待ちぼうけさせてしまっただろうと申し訳なく思う。ジャックは器用な男ではないし、こちらが信じられないようなことを知らない。一時期マスコミがこぞって記事にしたサテライト生まれだという話はどうやら本当だったらしいが、それでもどうすれば、ここまで何も知らぬまま生きてこれたのか疑問を抱くほどにだ。
「そこに座ってていいぜ。今、飲み物用意するから」
ソファを顎で指し、風馬はキッチンに足を向ける。――が、肩を掴まれ引き止められてしまう。やたら力の入った手の持ち主は当然、ジャックだ。
「いらん」
それだけ呟いたジャックの見下ろしてくる瞳が、まるで迷子になった子どものような不安を滲ませていたように見えたのは、風馬の気のせいではないだろう。そのままぐいと身体を引っ張られて、風馬の方がソファに押し倒されてしまう。軽い衝撃に目を瞑ると、次に開いたときには目の前にジャックの顔があった。グローブをしたままの手が伸びてきて、風馬の服を脱がしていく。ぷつり、ぷつりとボタンの外される音、ぱさ、ぱさりと乾いた衣擦れの音が良く響く。
「……ジャック?」
突然の行為に、風馬は驚きはしたものの冷静さを失わない。ジャックがこちらに危害を加えることなど決してないのだから。そう考えて、風馬はジャックの好きなようにさせていた。やがて腹に直に空気が触れるようになった頃、ジャックの視線が一点でぴたりと止まった。それは手術痕だった。数ヶ月前のものだ。すっかり塞がって、少し皮膚が盛り上がっている程度のもの。だというのにジャックはたいそう辛そうな顔をして、そっと指を添えている。
「……未だ治っていないのか」
「痛むこともないし、もう治ったも同然だ。……ジャックがそんな顔する必要ないぜ。これが俺の仕事だからな。むしろ勲章だ」
Dホイール窃盗団への潜入調査。その最中に、何も知らずに窃盗団の成敗に躍り出たジャックを庇ってついたのがこの傷だった。足を撃たれ、Dホイールごと派手に転倒したせいで、骨を折ったり内出血を起こしたり、一時は生死の境すら彷徨う羽目になってしまった風馬だったが、微塵も後悔はなかった。今こうして以前と変わりなく生活し、仕事にも励むことが出来ている。そして何より、ジャックと出会い、こうして部屋に呼ぶことができるまでの仲になれたのだから。
「……覚えているのか」
しかしジャックは目を丸くしてそんなことを言ってくる。
「何言ってるんだ。当然だろ――っと」
言い終わる前に、ごろんと身体をひっくり返される。うつ伏せにされた後、上着をぺろりとめくられて、今度は背中を晒される。ジャックの手が触れたのは、腹のものより新しい傷だ。
「ここは」
「この前のゴースト騒動のときのだな。覚悟はしてたが、あれは驚いたぜ。ソリッドビジョンが本当に現実のダメージを伴ってくるなんてな」
襲撃を受けた大会参加者の変わりに受けたダメージは、リアルな痛みを風馬に与えた。普段なら決して決闘者にダメージを与えないソリッドビジョンは凶器となり、制服を切り裂き、背中に傷を刻んだのだ。その右腕に刻まれた痣のために、ジャックたちがしばしばそのような決闘に臨んでいることは伝え聞いていたし、目の当たりにしたこともあったが、、身をもって体感すると、想像していたよりも遥かに凄絶であった。傷つくことは慣れているが、こんな危険な行為を、セキュリティという立場からして守るべき対象である市民――つまりはジャックたち、シグナーという役目を持っているという少年少女がしなければならず、またそれが彼らにしか出来ないことかと思うと、胸が痛くなった。
「無茶をするなと言ったのに」
「このくらいのことしか、俺には出来ないからな」
背後のジャックをちらりと伺えば、やはりまた目を丸くしている。何が彼を不思議がらせているのか風馬には心当たりがない。背中を撫でていたジャックの手が、先ほどの傷よりも少し肩の方にずれた場所で止まる。
「ここにも細かいが、傷がある」
「ああそれは、この前ジャックが――」
「なっ――あ、あれは、そのっ!!」
からかってやれば、ジャックは弾かれたように手を離して、顔を耳まで赤くする。色が白いぶん、その下の血の色が目立つせいか、本当にこういうときのジャックは普段からは想像つかないような顔色を見せるのだ。
「余計なことまで、覚えているのだな、お前は!」
「余計じゃないぜ。俺たちにとってはじゅうぶん大切なことだ」
「………」
よっ、とばかりに身体を起こして、ようやく風馬はジャックと向かい合う形でソファに座ることができた。着衣はすっかり乱れてしまっていて、身体に引っかかっているだけだった。煩わしくなって脱いでしまう。上半身がさらされる。ジャックが少し目を背ける。互いの裸体に、何の感情も抱かぬことができないほどの関係を、既に風馬とジャックは築いていた。
だんまりになったジャックの頬に風馬はそっと手を添える。僅かに彼の首が動いて、しゃらりと銀色のピアスが揺れた。
「何があったんだ?」
「………」
ジャックは黙ったままだ。
「俺に言えないなら、別にいい。でもな、いきない押し倒されて、服まで脱がされたんじゃ、理由を知りたくなるだろ?」
「……覚えているか」
ジャックがぽつりと声をこぼす。頬に伸ばされていたままだった風馬の腕に、ジャックの手が添えられる。
「え?」
「お前の怪我が治ったら」
「……一緒にライディングデュエルをしてくれるんだよな?」
「……勿論だ」
笑って言えば、ジャックの目が、輝きを取り戻した気がした。
「風馬」
「今度はなんだ?」
「――今の治安維持局の長官は」
唐突な問いの意味を、風馬は知る由もなかった。
「何だよ、突然。イェーガー長官だろ? レクス・ゴドウィン前長官以来不在の時間が長かったから、これでようやく少しは落ち着ける」
当然、ジャックの目が絶望の色に染まり、諦観に伏せられる理由など、風馬は知りえないのだ。
「ジャック?」
「風馬」
添えられていただけだった手に、急に力が篭められる。
「俺と一緒にいろ。今から、ずっとだ! 俺の傍にいろ!」
ジャックの言葉は荒っぽいものだったが、何故か酷い悲しみと、必死さが同時に伝わってくるものだった。真剣そのものといったまなざしだった。
「告白か?」
「この際、どうでもいい! ……俺が守ってやる。だから、絶対に忘れるな」
いつもなら否定してくるだろう冗談も受け止めず、ジャックはとにかく風馬の手を握り続ける。忘れるなとはどういうことだろう。風馬は何も忘れてなどいなかった。ジャックと築いた思い出は全て、風馬の身体に、心に、しっかりと刻まれている。それが勲章という名の傷跡だったり、今こうしてジャックの隣にいるということだったりと、要素は様々であるが、風馬にとってはいい意味で忘れたくても忘れられないのが、ジャック・アトラスという存在だった。
「よくわからないが、心配は嬉しいぜ。――でもな、ジャック。お前たちにばかり負担をかけるわけにはいかない。俺だってセキュリティの一員だ。自分の身くらい自分で守れる。だから」
言いかけた唇は降ってきた唇によって塞がれる。強引に飲み込まされた言葉が咽喉の中を彷徨い消える。守ると言ってくれた男の背中は、本来の体躯よりもずっと小さく見え、孤独と不安に震えて今にもかき消えてしまいそうだった。
風馬とカーリーに対してジャックがとって欲しい行動が真逆すぎることに気付きました。カーリーの件があるので、忘れられることを怖がっているジャック…って感じです。
Text by hitotonoya.2010