度重なる安眠妨害に耐えかね、鬼柳はとうとう寝台を降りた。上質のスプリングは軋む音も立てず、ゆっくりと平らに戻っていく。
柔らかな踏み心地を返す床を横切り、備え付けのシンクで水を注ぎ、立ったまま飲み干した。
すっと喉を滑り落ちていく感覚が消えると、鬼柳は小さく鼻で笑った。
決勝戦進出者へ宛てがわれた宿は、会場に近く立地が良いがそれほど高いホテルではない。参加者の中には主催の好意を蹴り、自腹でもっと高級な宿を取っている者もいるくらいだ。
それでも、無味無臭の水が蛇口をひねっただけでいくらでも飲める。これがサテライトなら、一旦濾すか沸かすかしなければならないだろう。いや、そもそも無事に水を吐き出す水道管がどれだけ残っていることか。
あの頃、あの場所で、皆が求めていた豊かさとはこういうものだったのかと、今更のように知った。
鬼柳だけが違った。親の顔も知らずに育った鬼柳にしてみれば、自分を対等に見なしてくれる誰かがいてくれれば、それで満足だったのだ。
――再び脳髄をかき乱す響きに、鬼柳は笑みを浮かべていた口を歪めて手をついた。
「っちぃ……」
水を飲んでいた間治まりかけていたのに、『彼』の事を考えていたのが引き金になってしまったようだ。
「うるっせえな、本当に……」
声に出しながらベッドサイドに戻る。
これまでずっとそうしてきたように、鬼柳は今回の大会にも一人で参加していた。部屋にいる人間は鬼柳ひとり。
……人間は。
ベルトごとテーブルに置いていたデッキケースを取り出し、1枚、デッキとは別のしきりに入れてあったカードを引き抜く。
白い枠に囲われた、悪魔のような竜の双眸は、絵の向こう側から確かに鬼柳を睨んでいる。
「ったく、やっと脅迫をやめたかと思えば今度は安眠妨害か。寝不足で事故って困るのはお前だろうが」
ジャックに逢う前によ。
その名前を出した瞬間、鬼柳を襲う頭痛がいっそう激しさを増した。
「がッ……ぐぅ……!」
これ以上があるだろうかと自嘲する余裕すらなくなった。脳味噌をぐっちゃぐちゃにかき混ぜた中から頭蓋骨をガンガンと叩き割っているような痛みは筆舌に尽くしがたく、今度こそこれ以上の痛みはないと思えた。
決闘竜を従えた決闘者がどいつもこいつも、性根の腐った人格破綻者しかいない理由がよく分かる。どんな聖人君子であっても、四六時中あの痛みを味わわされればよくて廃人、狂い処が悪ければシリアルキラーにすら成り下がるに違いない。
「テ、メェ……!」
嗚咽を堪えて吐き捨て、どうにか持ち上げた右手でテーブルの上を探る。
残していたデッキに指が触れた途端、痛みは徐々に引いていった。
「っあー……、くっそ」
もっとも、これも昨日今日に始まったことではない。あの日、施設からカードを盗み出し逃亡した時から、炎魔竜はずっとこうだった。
決闘竜の圧力に精神を、何の庇護もないサテライトでの生活で体力をすり減らしながら、それでも鬼柳はこのカードを手放さなかった。
炎魔竜の目論見を知っていたからだ。そうさせない為には、鬼柳がこのカードを持ったまま逃げ隠れる必要があった。それがどんなに辛くても、鬼柳にはそうしなければいけない理由があった。
そうして、死に物狂いで生にしがみついていたある日、鬼柳は出会ったのだ。
もう一枚の決闘竜。鬼柳を、地上と地獄の狭間で藻掻くその『執念』を認めた煉獄のドラゴンに。
炎魔竜からの攻撃はその日を境にぱったりとやんだ。同じ決闘竜として、両者で何らかの作用があったのかもしれない。そのあたりの事情は、鬼柳には知り得ないところである。
生活の方は依然として苦しいものでしかなかったが、少なくとも気狂いの恐怖から逃れたことで鬼柳の天秤は死から生に傾いた。
元々施設でもトップと目されていたほどの腕だ。決闘に割く余裕さえ得られれば、あっという間に生活の糧となるレベルに研鑽された。
無手札コンボの完成度に磨きをかけ、オーガ・ドラグーンを切り札としてならず者どもを組み伏せる。
頭角を現した鬼柳に寄ってきたのは素性の怪しい連中ばかりだったが、サテライトで暮らす分には不自由しないだけの生活も手に入れた。
そんなある日、シティの治安維持局が大規模な決闘大会を開催するという話が伝わってきた。
優勝者には富を、そして栄誉を――無敗の決闘王へ挑む権利を。
アトラスという姓を得た少年がどうなったのかは、サテライトに暮らす鬼柳の耳にも入っていた。
相手の動きを読み切ってのパワープレイは変わっていなかったが、決闘の運びには荒れというか、ほつれのようなものが見え隠れしていた。時折、野試合でDホイールごと粉砕された決闘者の噂もそれを裏付けているようだった。
そして、今日の再会――ジャックは炎魔竜を求めていた。この十数年間、決闘竜が彼を求めていたように。
長らく沈黙を保っていた炎魔竜が再び鬼柳に牙をむいたのは、明らかにあの邂逅がきっかけだった。昔ほど酷くないのがせめてもの救いだ。
あの時はさすがの鬼柳も肝が冷えた。保険として持っていたコピーカードだったから良かったものの、あれがもし本物であったら――。
再び闇の気配を感じた鬼柳は、ずっと握ってしまっていた炎魔竜のカードを手放しケースに戻した。その上から封をするように自身のデッキを、そして煉獄龍のカードをしまう。
「……どうせ明日までの付き合いだ。今晩くらいは大人しくしてろよ」
明朝から始まるD1GP。どのような形式で行われるのかまだ告知されていなかったが、鬼柳の狙いはただ一つだった。
炎魔竜レッド・デーモン。その力を真っ向から叩き潰し、その妄執から解き放つ。
決闘者としての栄誉など興味がないと言えば嘘になるが、それだけでは満たされない。
あの時の迷いに、後悔に決着をつけなければ、鬼柳もまた過去に捕らわれたまま前に進めないのだ。
「……ああ、心配すんな。今度こそ、俺の全力で満足させてやるよ」
脳裏に浮かぶ面影にひとりごち、薄闇の中鬼柳は小さく微笑んだ。
――最初は小さな迷いだった。
このカードを手にすれば、ジャックはどこか遠くへ行ってしまう。自分たちのそばからいなくなってしまう。
ならば、このカードがなくなれば……というのは、いかにも子供らしい無邪気な発想だった。
だが忍び込んだ部屋でその竜を見た瞬間、無垢な魂はあまりのおぞけに震え上がった。同時に思い出す。勝負がついた後、手渡されたジャックの顔が悪魔のように歪んだ様を。
緊張と恐怖で心臓がばくばくと鼓動を打つ。
大人たちの足音や怒号は徐々に近づいてきていた。
にも関わらず、今ちいさな頭をいっぱいに占めているのは自分の事ではなく、もう一人の少年への心配だった。
このカードを近づけさせてはいけない。けれど、この施設にいたままではきっと大人に取り上げられてしまう。
選べる道はひとつきりだった。
そうして無我夢中で走り、逃げに逃げた。表に出た時には心臓が破裂するのではないかとすら思った。
必死で呼吸を落ち着かせながら、琥珀色の瞳が夜空を、そしてのしかからんばかりにそびえる建物を見上げた。
今まで自分のいた場所。自分を受け入れてくれた居場所。ずっと一緒にいたかった仲間のいる場所を。
そんな自分のささやかな満足を『牢獄』と言い切った少年の顔を思い浮かべる。自分にとっては満ち足りた場所だったが、彼にとってその世界は狭すぎたのだろう。
解き放ってやりたいと思った。壁から出た彼がどこまで羽ばたいていけるのかを見たかった。だが――
胸に抱えたままのカードを握りしめる。
こんなものは違う。
確かにこれがあれば、ジャックは外の世界に出られるかもしれない。だがそれは、この悪魔に魂を繋がれてしまうのと同じだった。
そんなものが彼の欲する自由であるはずがない。
そんな彼が見たいのではない。
頭上を掠めるサーチライト、迫る足音。
右も左も分からない廃墟の闇へ、少年は迷いもせず飛び込んだ。
ひかわさんに頂きましたVJ京ジャ!!仕事速すぎですありがとうございますありがとうございます…!!
Text by hitotonoya.2012